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日記を趣味にする。

日記というのは、とてもおもしろい容れものだ。

たとえば日記に、日々の「気持ち」を書く。仕事が忙しくてまいったとか、最近あまり本を読んでいないとか、きのうの飲み会はおもしろかったとか、そういう日々の「気持ち」を書く。

書いているあいだは、おもしろい。書いた翌日あたりも、まだおもしろい。ところが、たとえば一年後に読み返してみたときにそれがどこまでおもしろいのか。ここはかなり微妙なものがある。それよりもむしろ、天気、気温、その日の服装、昼ごはんのメニュー、あたりを記録しただけの日記のほうが読み返して「へぇー」というおどろきがあり、よろこびがあったりする。そこに季節があり、そのときならではの行動があるからだ。それに対して気持ちや思索の記録は、案外変わりばえがしないものなのである。

ぼくがずっと書いてるこの noteは、他者に読まれることを前提としつつも、「いいもの」や「ほめられるもの」を書こうとする気持ちは、かぎりなくゼロに近い。コラムでもエッセイでもなく、かといって日記の呼び名に押し込めるには「気持ち」に寄った、まあブログだ。

それで最近、日記は2つ書くといいと思うようになった。

ひとつは「他者に読まれることを前提とした日記」。ブログとしてウェブ上に書いていくものはその代表格だ。そしてもうひとつが「だれにも見せないと決めている日記」。これは手帳や日記帳に書いたほうがいいだろう。

そんな面倒くせえことやってられるかよ、という声もあるだろうけど、日記を「趣味」だと考えるなら、なにも面倒ではないはずだ。日記を義務的なものと考えるから、面倒に感じるのだ。だって「趣味」なら、毎日いくらだってやりたくなるはずだから。

では、どうすれば日記を「趣味」にできるのか。日記の醍醐味を実感することができるのか。

もしかするとそれは、「失うこと」なのかもしれない。なにかを失う。大切な人を、大切な場所を、大切な関係を、かけがえのなかった時間を、失う。いまや日記のなかにしか存在しない「あのころ」を知る。

失うというと、なにやら悲しい別離ばかりが浮かぶものだけれど、成長だってひとつの喪失だ。未熟が、若さが、無知が、それゆえの無鉄砲が、すこしずつ自分の周囲から失われていくこと。それが成長の姿だ。

若い人からするとぼくは、いいおっさんなのかもしれない。けれど5年前よりずっと成長しているし、5年後には「あのころは若かったなあ」といまの自分を振り返っている。なにかを失い、失ったぶんだけ別のなにかが伸びている。そういう記録を残すことができれば、日記はじゅうぶんな趣味になりえると、ぼくは思っている。