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おとなになったなあ、と思う。

犬の散歩コースは、だいたい決まっている。

住宅街を歩いて、高校の裏道をとおって、また住宅街を進んで、小学校の隣を抜けて、公園にたどり着く。公園に着くと犬は、ひたすら土や落葉の匂いを嗅ぎ回る。いろんな匂いが落ちているんだね、と思う。だれかが落とした匂いを、拾い集めているんだね、と。

帰りの住宅街を歩くなか、匂いを拾うのはもっぱら人間の仕事である。夕方ごろの散歩道には、たくさんの匂いが漂っている。たまねぎを炒める匂い、にんにくを炒める匂い、しょうゆを煮詰める匂い、入浴剤の匂い、その他もろもろ。

きのうの散歩道でぼくは、すきやきの匂いを拾った。ああ、そういえば最近食べてなかったな、と思った。大好物というほどの料理ではない。けれど、いますきやきを食べたなら、どんなに気持ちがいいだろう。犬連れの足が、若干速くなる。

帰宅後、近所のスーパーまですきやきの材料を買いに出かけた。春菊が売り切れていたのは残念だったけれど、タイムセールですきやき肉が半額になっていた。

白菜とねぎを切り、しらたきのアク抜きをして豆腐を切る。わりしたは以前に買っていた出来合いのもの。しょうゆと日本酒を足して、味を調える。散歩道で思いついたすきやきを、1時間と経たないうちにほおばる。ついでにワインなんて、開けてしまう。

おとなになったなあ、と思う。

食べたいと思ったものを、その場で買いに出かけ、そのまま夕食として食べる。気持ちが新鮮なうちに、新鮮な気持ちをまるごと食べてしまう。子ども時代の食卓は、こうはいかない。その日の夕食でなにを食べるのかは、基本的におとなが決めることだ。しかも子ども時代のぼくは、「きょうは焼き魚が食べたいな」とか「久しぶりにすきやきもいいな」とか思うのではなく、一年中ずっと「から揚げ食べたい」とか「ハンバーグ食べたい」と思って生きていた。旬も季節も胃腸も栄養も考えないまま、ただ好きなものばかりを望んでいた。

「好きな食べもの」と「いま食べたいもの」は違う。「好きな本」と「いま読みたい本」は違う。「好きな音楽」と「いま聴きたい音楽」は違う。

若いころは「好きなもの」にしがみついてばかりだった気がする。一瞬たりとも手を離さないよう、必死になってしがみついていたような気がする。そうした「好きなもの」をいったん横に置いて、「いま欲しいもの」や「いま必要なもの」に手を伸ばす。それはとても、おとなな感じがするのだ。