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おいしいごはんを食べて考えた。

食が太い、という言いかたはあるのだろうか。

体調や生まれ持った気質などの要因によってあまりものを食べない人、または症状を指して、「食が細い」という。夏バテで最近食が細くって、なんて感じで。ならば一方、なんでもおいしくばくばく食べる大飯喰らいのことは「食が太い」というのだろうか。食に関して自分が太いか細いかでいえば、間違いなく太いほうだと思う。複数人で大皿料理を注文した折には、ほとんどいつも皿に残された料理に戸惑う。「みんな、もうお腹いっぱいになったの?」「それとも遠慮してるの?」「これはおれが食べてもいいの?」「それともここで食べるのは『いやしい』ことなの?」。

しかしながら、食の太さでこいつには勝てないなあ、と思うのがビーグル犬だ。すなわちうちの犬だ。彼はもう、一日二度の食事だけをたのしみに生きている。散歩よりもごはん。おやつもいいけどやっぱりごはん。出されたごはんは秒で完食し、名残惜しそうにいつまでもいつまでも皿を舐めている。回収しなければ10分以上は余裕で、皿を舐め続ける。世のなかには食の細い犬も多いと聞くが、うちの犬は太くてよかった。好きな人(犬)が「好きなもの」に夢中になる姿は、見ていてとてもうれしい。


週末に、好きなお店で食事をとった。犬の話ではなく、ぼくの話である。出される料理のすべてがおいしく、身悶えしながらそれを食べた。そして自宅までの帰り道、ふと思った。

世のなかにはいろんな才能があり、技能があるけれど、「料理がうまい」に勝る才能はないんじゃないか。

絵がうまいとか、歌がうまいとか、文章がうまいとか、野球がうまいとか、人を魅了したりしあわせにしたりする才能・技能はたくさんある。わけもわからず泣いてしまうような感動も、そこにはある。ぼくとてそういう表現者たちに幾度となく救われてきたおぼえが確実にある。


でもなあ。

「おいしいごはん」ほどダイレクトに、有無を言わさずみんなをしあわせにさせるものって他にないんじゃないかなあ。五感と向き合う芸術でありながら、「いのち」の根っこをつかんだものでもあるんだからね。プロの料理人たちはもちろん、家族においしいごはんをふるまっている人たちも自分がどれだけのしあわせと関わっているか、もっともっと自信をもってほしいし、食べるこちらもまた、その感動を率直にことばにして伝える準備を整えておきたいな。グルメ野郎っぽくあれこれ批評するんじゃなくて、ただひと言「うまい!」ってね。

なんてことを考えるのも、ぼくの食が太いからかもしれないけど、おいしいごはんを食べるに勝るよろこびは、なかなか見当たらないですよ。