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他人の悪口を言わない生き方は。

松井秀喜さんは、人前で他人の悪口を言ったことがないのだそうだ。

正確には中学2年生のときから。食卓で友だちの悪口をこぼした松井さんに対し、お父さんが「悪口を言うなんて下品なことをするな。いまここで二度と他人の悪口は言わないと約束しなさい」と叱責。松井さんはそのときの約束を守ってずっと、他人の悪口を言わないようにしているのだという。

他人の悪口を言わない。それがどれだけむずかしいことであるかは、誰もがわかる話だと思う。しかし、悪口を言わない生き方がどうむずかしいのかについては、なかなかわからなかった。最近になって、その一端がわかった気がした。

というのも先日、とある食事の席で「あの人はこういうところがダメなんだ」という話を、自分から持ち出した。話しながら自分で「ああ、またこういう話になっちゃった」と気づく。けれどもなかなかする機会のない話だけに、悪い口が止まってくれない。帰りの電車、松井秀喜さんの顔を思い浮かべる。「おれ、また言っちゃいましたよ」と頭を垂れる。「言わない松井さんはすごいですねえ」。なにがすごいのか、ようやくわかった。

誰かの悪口を言うときぼくは、その人を攻撃したいわけではない。そこまでの興味を、じつは持っていない。ただ「あの人はこういうところがダメなんだ。それというのもね……」と、三点リーダー部分の持論を述べたいのである。自分語りの入口として「ダメなあの人」を置いているだけなのだ。

それではなぜ、そんな入口が必要なのか。

凡夫にとっての「わたしが大切にしていること」、すなわち信念が、他者との比較のなかにおいてようやく、明らかになるものだからだ。

誰かの言動に「なんか嫌だな」と思う。「それは違うぞ」と思う。そこでようやく「なにが嫌なんだ?」「どこが違うんだ?」の自問がはじまり、「ああ、なるほど。わたしはこういう信念を持っていたのか」と気づかされる。「ダメなあの人」はわたしという政権与党にとっての野党であり、それゆえ悪口のほとんどは「そうじゃないわたし」の表明として語られる。

じゃあ、悪口を言わない生き方とは、どういうものなのか。

徹底した内省をともなう生き方である。(わたしを照らす)誰かの反射光に頼らず、わたしを見つめる。わたしはどんな人間で、なにを大切にしているのか、ひたすら自問自答する。それが十分にできていれば、もはや悪口は必要なく、悪口を言わない(言えない)自分にストレスも感じないだろう。


Twitterのアルゴリズムが変わったからなのか、この1〜2ヶ月のあいだ、ぼくのタイムラインは荒れに荒れている。静かな内省の場が、必要になってきている。ぼくにとっては日々の note を書くことが、それになっているのだと思う。