書くのが面倒くさい、のではない。
まわりからヒマそうに映る人ほどじつは、忙しくしているものだ。
いくつかの「わかりやすく忙しい」仕事から解放されたぼくも現在、「わかりにくく忙しい」状態に置かれている。こう見えて忙しいんですよ、と言いたくなる気持ちがある一方、ヒマそうに映っていること自体はいいことだよな、とも思う。あんまり忙しいオーラを出し続けていては、かかる声もかからないのだ。あそびも仕事も。
で、そういう忙しい時期に身を置いていると、ここの note を書くのが面倒くさくなってしまう。「今日は書きたくないな。休んじゃおうかな」の誘惑が襲ってくる。
さあ、この誘惑に潜む大問題を見逃してはいけない。
こういうときの自分は——そしておそらくほぼすべての人は——「書きたくない」のではない。書きたくないんじゃなくって、「考えたくない」のだ。考えるのが面倒だから、書くことから逃げたいのだ。それなりにまとまりを持った文章を書こうとしたら、考えざるを得ないのだから。
話題のレベルは関係ない。高尚な話題であろうと、低俗な話題であろうと、書くとあらばなんらかの思考が必要で、思考のためには日常からの離脱が必要で、すなわち「書く時間=考える時間」の確保が必要で、物理的にも精神的にもそれを確保するのが面倒くさいのである。
いま、「バトンズの学校」を卒業していった人たちのうち何人かが、「毎日書いてみる」を継続している。内容がおもしろいとかおもしろくないとか、文章がうまいとかうまくないとか、そんなことはどうでもよろしい。大事なのは日々の営みに「その時間」を確保することだ。書く時間があり、考える時間がある、そういう日常を自分のものにしていくことだ。
毎日なにかを書き、つまりは考えている彼ら・彼女らを、「よしよし、いいぞ」と見守っている。