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投資だとか貯金だとか経験だとか。

いまひとつどうも、手応えに欠ける。

毎日ちゃんと忙しくしているし、やらなきゃいけないことをやるべき順番に従ってひとつずつ、こなしている。それでも仕事が、具体的には原稿が、まだ動きはじめる段階に入っていない。いや、無理をすれば原稿執筆に突入することだって可能なのだけれども、事務的な「やらなきゃいけないこと」が目白押し過ぎて、なかなかそちらに足を踏み出せない。「こんなことしてていいのだろうか?」的な焦りが、じわじわ胸に去来する。

こういうときに便利だなと思うのが「投資」なることばである。

たしかに企画は、また原稿は、いま1ミリも進んでいない。しかもボールは自分のところにあり、他の誰でもない自分自身が、そのボールを投げあぐねている。事務的な諸々、その他の諸々に追われて、手をつけられずにいる。けれども自分はいま、執筆仕事を休んでいるのではなく「投資」をしているのだ。のちのちになんの気兼ねもなく執筆仕事に集中できるよう、いまやれるだけのことをやっておいて、数ヶ月後のために地ならししている。雑務に追われているのではなくこれは「投資」なのだ。

そんなふうに自分を納得させながら、まったく本業とは言いがたい事務仕事に精を出している。まわりから見ればこれは「なにもしていない人」の姿だろう。さぼっているようにも映るだろう。その対外的なインプレッションもまた、「投資」一般とよく似ている。金融資産的な意味において、ぼくはまったくもって投資家ではないし、むしろ投資家たちへの偏見も強いほうだと自覚しているけれども、おそらく投資とは「未来の地ならし」なのであり、なにもしていないように見える投資家たちも忙しく働いているのだ。当たり前のこととして。

せっかくなのでこの流れに沿って、経験と貯金の関係についても考えておきたい。人生におけるさまざまな経験は、ときに貯金にたとえられる。たとえばぼくは中学・高校時代にどっぷりと体育会のカルチャーに染まってきた男だけれども、社会に出たのち体育会的なノリや根性を求められることは割合多く、当時に得た貯金を存分にいかしながら大人になった自覚が、ぼくにはある。言い換えるなら、ガチの体育会の経験は、社会のなかで極めて換金のしやすい円建ての貯金だ。

一方、同じく中学・高校時代に耽溺していた洋楽はどうだろう。しかも使い勝手の悪いことに、ぼくは60〜70年代のアメリカン・ロックを主に愛好していた。ジャンルで言えばウエストコースト・ロック、サザン・ロック、スワンプ・ロックなどなどだ。そうした経験を貯金としてダイレクトにいかそうと思うなら、マニアックな音楽雑誌社に就職するくらいしか思いつかない。けれどもぼくは音楽ライターでも音楽評論家でもなく、ただの音楽ファンとして生きている。あの経験(アメリカン・ロックへの傾倒)がまったく無駄な行為だったとは思わないし、なにかの貯金にはなってくれているだろうけれども、それはなかなか換金のむずかしい異国の通貨なのかもしれない。

で、このとき必要になるのがエクスチェンジである。実社会で有用な日本円への両替である。

たとえばぼくが、マーシャル・タッカー・バンドという人たちを好きになったとして、そこで得た知識や経験は実生活においてほとんど役立ってくれない。実際の話、誰かとの会話のなかで彼らの名前を口にした記憶が、ぼくには2度や3度しかない。

けれど、(インターネットもなかった時代に)自分がどうやって彼らのことを知り、彼らのことを好きになっていったのか、また彼らの先に誰のことを好きになったのか、それはなぜなのか、といったことを考えたり思い出したりしていけば、「見つけかた」「出会いかた」「好きになりかた」などのヒントにはなり得るのかもしれない。かつての経験を、日本円に両替できるのかもしれない。


なんの役にも立たない経験は、たしかにある。むしろそればっかりだ。けれども、本気で取り組んだ経験であれば、それは両替のやりようひとつで換金可能なものだとぼくは考える。だからこそ、本気や真剣は大切なのだ。たとえアイスコーヒーの飲みかたひとつにおいてでも。