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お茶をにごすつもりが、こんなことに。

さて、きょうはやることの多い日。

困ったときの得意技、非常にどうでもいい雑感をつらつら列挙して、お茶をにごしますよ。そういう男ですよ、きょうのわたしは。


そもそもお茶をにごすってなんだ。

いや、いま書いてて思ったんですけどね。お茶をにごすって、どういう由来のことばなんでしょう。だって、どれだか忘れたけれど、ペットボトルのお茶、そこでの売り文句として「このにごりが本物の証です」みたいなことを言ってる商品あるじゃないですか。急須で淹れたようなお茶、とか。抹茶だって底が見えないほどにごっているものだし、なんで「お茶をにごす」ことが「小手先のごまかし」みたいなニュアンスになっちゃったんでしょう。

ってね、ここでグーグル検索したり、語源辞典を調べたりせず、まずは自分で考えること。外れるに決まってるんだけど、自分なりの答えというか、仮説を出してみること。それができたうえで辞典を引くこと。そのひと手間が「取材」なんだと思うんです。

という話をこちらの対談(後編のほう)でしています。あほみたいに長い対談だけれど、彼とこういう場で話す機会ってあんまりないので、よろしければ一度読んでみてください。


意識ぺらい系。

上の対談のなかでぼくは、司会者である今井くんについて「薄っぺらい」ということばを使っています。まあ読んでいただければおわかりのように、そして実際に会って話せばもっとおわかりの方も多いように、非常に薄っぺらい男です、今井くんは。

それで、ここから先は彼がそうだというわけじゃないのですが、よく言う「意識高い系」って、ようするに「薄っぺらい」と同義なんじゃないかと、ふと思ったわけですよ。「意識高い」をそのまま字面でとらえると、「低いよりもいいじゃないか」みたいな擁護の声も出てくるのでしょうが、意識が高いとか低いとかじゃなく、ただただ薄っぺらい。そのぺらぺらな感じに、多くの人がいらついているのではないでしょうか。

だからほんとは「意識ぺらい系」とかがちょうどいいんですよねえ、飲みの席で話すような揶揄のことばとしては。多いですよ、ぺらい人。


知識と経験の追いかけっこ。

でもね、若いうちの「意識ぺらい系」って、ある意味しょうがないと思うんです。前にも書いたと思うけれど、10代から20代にかけてのある時期には、知識が経験を先行している季節がかならずあるものなんですよ。男子中学生の語る性の話なんかが典型ですけど。で、やっぱりわかったつもりになって得々と語られる知識って、どうしても薄っぺらいんです。当たり前ですよ、わかってないんだもの、ほんとうには。だからこそ若かりし日の自分は恥ずかしいし、ぶん殴ってやりたいし、ちょっとだけうらやましいのだし。

とくに子どものころからインターネットがあって、なんでも検索できて、なんでもわかったつもりになれる世代の人たちは、知識と経験のバランスをつかむのがむずかしいだろうなあ、と思います。


って、書いてたらけっきょく雑感の列挙ではない、ひと続きのはなしになっちゃいましたね。まとめのひと言も考えないまま、原稿に戻ります。