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知りたいことと知らんでいいことの境界線。

ツイッターには「トレンド」という機能がある。

いまツイッター内で話題になっていることばをピックアップし、ランク付けして表示する機能だ。とくにブラウザ版のツイッターを開くと、右端にそのときのトレンドが紹介されている。

「いったいこれはなんだろう?」「なにが起こっているのだろう?」。表示された不穏なトレンドワードをクリックしても、なんだかよくわからない。さかのぼって読み込んでいけば「そういうことか」と理解できるのかもしれないが、実際にさかのぼって調べることは稀だ。なぜってそもそも、そこまで強い関心があるわけでもないのだ。

世のなかには「知らんでいいこと」がいっぱいあるよなあ、と思う。

そして「知らんでいい」はずのことを、「知ってないと恥ずかしいこと」のように感じる心は自分にもあるよなあ、と思う。

原則として世のなかは、また人生は、「知ってたほうがおもしろい」ようにできている。たとえばたくさんの映画を知っていたほうが、人生なにかとおもしろい。たくさんの音楽を知っていたほうが、人生なにかとおもしろい。本であろうと、絵画であろうと、落語や漫才、浪曲であろうと、なんだってそうだろう。

しかしながら世のなかに「知らんでいいこと」がたくさんあるのもまた事実で、「知らんでいいこと」をどれだけ仕入れたとしても、そのひとの人生が豊かになるわけではない。

じゃあ、ぼくはなにをもって「知ってたほうがおもしろいこと」と「知らんでいいこと」を峻別しているのか。

それは「ひと」なんだと思う。

つまり、自分の好きな誰かがなにか自分の知らない話題で盛り上がっていたときに「おれもそこに入りたいな」と思うかどうか、である。たとえばぼくは若いころ、60年代や70年代の洋楽をずいぶん熱心に聴いていた。もちろん聴いたらカッコよかったから聴いたのだけど、入口にあったのは「あの人らの話題に入っていきたい」だった。具体的には、萩原健太さんや渋谷陽一さんたちの話題に、入っていきたかった。これは音楽にかぎらず、映画を観るのも、本を読むのも、入口には大抵具体的な「あのひと」がいた。

世のなかには「付き合った彼氏や彼女の趣味に染まるひと」と、「誰と付き合おうと一切自分が変わらないひと」がいるのだと思うけれど、ぼくは染まるだけの余白を持った自分でありたいなあ、と思っている。知らないことを教えてもらうのではなく、「おれもその輪に入りたい!」と飛び込む自分でありたいなあ、と思っている。

逆に言うと、「自分の好きなことを楽しそうに話す」は、とても大切なことなんだろう。もしかしたらその輪に、あたらしい誰かが加わってくれるのかもしれないのだ。