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コントロールと全力投球。

みんな大好き、タモリ倶楽部の「空耳アワー」。

どれくらい前のことか忘れたけれど、あるときビートルズ『抱きしめたい』の空耳が放映された。原題はもちろん I want to hold your hand である。この曲のサビ、カタカナで拾うなら「アウォナ・ホールデョ・ハァ〜ンッ」とでも表記すべき部分に投稿者は「アホな放尿犯〜♪」という日本語をあてていた。路上で放尿しながら警官に追われる犯人(?)の映像とともに。


「いやいやいや! ホールド・ユア・ハンドだし!」。

あきれ笑うぼくは次の瞬間、この投稿者を心底うらやましいと思った。そんなふうに聴けてしまう自由さに、まっしろなキャンバスに、ちょっぴり嫉妬してしまった。歌詞カードと睨めっこしながらビートルズを聴きつづけたぼくは、英語はしゃべれないくせに英詞を英詞として記憶してしまったぼくは、どんなにあたまをやわらかく自由な耳で聴こうと試みても、たぶん「アホな放尿犯」を見つけられなかっただろう。自分が知識だと思っていることの多くはつまらない常識であり、つまらない常識は発想の枠を狭める。それどころか、目や耳さえも曇らせる。


仕事をしていてよく疑問に思うのは、ライターや編集者をはじめとするメディア関係者のターゲティング信仰だ。この本(この記事)は、こういう悩みを抱えるこういう層に向けたものであって、だからこそこういうスタイルでなければならない、みたいなことをかなり多くの人が訳知り顔で語る。左バッターの胸元に一球投じて上体を起こしたあと、外角低めにスライダーを放って、みたいな調子でターゲティングを語る。

どんだけ自分の配球とコントロールに自信があるんだよ。ぼくは思う。そういう知識や常識も野村スコープも大事だろうけど、それを全否定しようとは思わないけど、まずはキャッチャーミットめがけて全力投球することだろ。

ボール一個分のコントロールで、特定の場所に特定の球を投げることなんて、ぼくの制球力ではできない。知識としてそのセオリーを知っていたところで、ぜんぶの球をそこにおさめることなんて、できるはずがない。それに対して、「全力」で投げることはできるのだ。たとえ150キロの剛速球でなくとも、へろへろの球であっても、自分なりの「全力投球」はできるはずなのだ。


「アホな放尿犯〜♪」の響きは、こざかしい知識や理屈や常識に流れそうになるぼくを、こっち側に引き止めてくれる。最近ではもう、ほんとに放尿犯と聞こえるようになったくらいだ。