千里の道も一歩から。そのまた先も一歩から。
アスリートの競技者人生は、短い。
20歳前後でプロとしてデビューし、いかにも若々しく初々しい活躍を見せたあと、10年もすれば大ベテラン。引退の足音がひたひたと忍び寄り、20年も現役を続けられれば立派な「鉄人」だ。
もう流行らないことばになったけれど、これは少し「ドッグイヤー」と似ている。アスリートにとっての1年は、一般人にとっての7年。まあ、さすがにそれは大袈裟だとしても、たとえば5年。そう考えるとプロ入り10年目のアスリートは、50歳の大先輩だ。心あるスポーツファンの多くはアスリートのことばを、どこか「先輩のことば」のように聞いているのだと思う。
そうした「先輩」たちがときおり、にわかには信じがたい話をすることがある。たとえば、現役通算何百本ものホームランを打った強打者が、「すべてのホームランを憶えている」と語ること。現役通算百数十ゴールを決めてきたストライカーが、「すべてのゴールを憶えている」と語ること。さらには現役通算数千本ものヒットを打ってきた安打製造器が、「すべてのヒットを憶えている」と語ること。王貞治さん、三浦知良選手、イチロー選手らは、とうぜんのことのように、「憶えている」と明言する。
じつを言うと本日、2015年の1月から週日更新を続けてきた note が、通算で1000本目を迎えた。
1000本の話、ぜんぶを憶えているかと問われれば、まるで憶えちゃいない。記憶をたどって「こんなの書いたよな」と思い出せる話は、せいぜい100本くらいかもしれない(それもけっこう危なっかしい)。
ただ、読み返せばもちろん「ああ、そうそう、この話書いた」と思い出せるし、「これを書いたとき、こんなこと考えてたんだよね」「ほんとうはこういう話を書きたかったんだけど、それじゃあただの愚痴や悪口になると思ってこう書いたんだよね」みたいなことも、すらすら思い出せる。ことばだけが残っているのではなく、自分という人間がそこに「いた」という事実が、ちゃんと残っている。
とりあえず1000回、続けてきたんだなあ、と思う。
だったらここからもう1000回だって、続けられるはずだよなあ、と思う。
たくさんあったはずの「それどころじゃない日」にもなにかを書きつけ、そうか、それが1000回なのかあ、と思う。
事前に思っていたほどの感慨が湧き上がらないのは、たぶんきょうが「それどころじゃない日」だからなんだろうけど、そういう日にも続いていくんだなあ、と他人事のように思う。
千里の道も一歩から。そのまた先も一歩から。
明日からまた、てくてく続きを歩いていきます。
編集者のみなさん、くれぐれも「そんなの書いてる場合じゃないでしょ!」なんてつまらないこと言わないでくださいね。