いまになってわかることば。
先週に誕生日を迎え、ちょうど50歳になった。
50歳という区切りの歳を迎えた感慨よりも、「40代が終わったこと」の安堵のほうがおおきい。終わったから言えるもののぼくにとっての40代は、やたらと長く、大変なものだった。
いまから10年前、ちょうど40歳になる年に『嫌われる勇気』という本を書いた。書き上げたのは39歳の夏、40歳になる直前のことだった。いいスタートだったと言える。
そしてその翌年、糸井重里さんが「ゼロになって、ちゃんともがく。」という文章を発表した。
いまのぼくが40代のつらさを総括するには、まだ早すぎる(なんといっても先週までその当事者だったのだ)。けれど、それが「暗いトンネル」だったことは間違いない。まわりからどう見えていたのかは知らないし、たのしそうに見えていたことを願うものの、いやはやトンネルだった。
そんなことを考えながら、ひさしぶりにこの対談を読んだ。宮沢りえさんと糸井重里さんが「40代」を語り合う対談だ。
当時41歳だった宮沢りえさんは、ぼくと同学年。ひとつひとつのことばを読みながら、りえさんは当時からこれだけの覚悟をされていたんだな、と思った。彼女が抱える劣等感もよくわかるし、自分の「足りなさ」に対する危機意識や、すべてを知りたがる焦燥もよくわかる。やさしく、美しいことばで語られていながら、胸がえぐられるような対談だ。そして41歳当時の自分よりも、いまの自分で読んだほうがずっとよくわかる対談だ。
正直、20代の自分や30代の自分については「ばかだった」以外の感想があまり出てこない。そりゃ、自分なりに考えて自分なりに動いて、がんばったりもしていたのだけれど、根っこのところで「ばか」だった。
けれど、40代の自分については「ばか」のひと言で片づけるのがもったいないような気もしていて、もう少し経験を重ねたいつか、「40代」についてなにか書ける日がくればいいなと思っている。これからその年齢を迎える人たちのために。
ちなみに、いまのぼくはかなり晴々としている。ようやく次のスタートラインに立てたような気がしている。その晴れやかな気持ちを直接につくってくれたのは『さみしい夜にはペンを持て』という本で、この本をこのかたちでつくるためにはもしかすると、40代という長いトンネルが必要だったのかもしれない。
なんだか自分に酔ったような自分語りになってしまったけども、まあ記念の日を迎えたばかりということで勘弁してください。先週の金曜日には会社のみんなで生まれ年のシャンパンを空けました。