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そうじゃない「好き」のありかた。

来年の4月、ボブ・ディランが来日するのだそうだ。

前回の来日ツアーが、2016年の同じく4月。その年の秋にノーベル文学賞を受賞して——そのあとフジロックに降臨はしたものの——あの騒動以降、初の日本ツアーということになる。ノーベル文学賞受賞作家のライブ(しかも会場はZepp)なんてちょっと笑ってしまうけれど、彼自身もそれに似た話をしている。

受賞の知らせを聞いた時、私はツアーに出ていました。ちゃんと受け止めるのにしばらく時間がかかりました。私は偉大な文学家、ウィリアム・シェイクスピアについて考え始めました。彼は自分のことを劇作家と考えていたのだと私は思っています。彼は自分が文学を書いているんだという意識はまったく頭になかったでしょう。彼は演劇のために言葉を書いていたのです。つまり話されるもので、読まれるものではなかったのです。(中略)『これが文学か?』という問いは彼の意識のなかで最も遠いところにあったと私は思っています。

ボブ・ディラン、ノーベル文学賞受賞スピーチ原稿より 一部抜粋

今回の彼の来日ツアーについて、ぼくは会社の同僚・田中さんからその報せを聞いた。古賀さんは行かれるんですか、と。

ぼくはボブ・ディランという人の素晴らしさと面倒臭さ、前回の来日公演で感じたこと、その他もろもろをなるべく簡潔に語った。「だからたぶん、今回は行かないんじゃないかなあ」というニュアンスを込めながら。

話しながらふと、そういえば自分はボブ・ディランという人について、誰かとしっかり語り合ったことがないよなあ、と思った。いや、ディランだけではなく、たとえばオールマン・ブラザーズ・バンドだとか、リトル・フィートだとか、レイナード・スキナードだとか、レオン・ラッセルだとか、そのへんの人たちのおもしろさや豊かさについて、誰かと語り合った記憶って、ほとんどない気がする。「レコードコレクターズ」あたりの雑誌を眺めながらひとり愛聴していた、見る人が見ればさみしい青春時代を思い出す。


で、思った。

そのへんについて自分は別に、誰かと語り合うことを望んじゃいないのだ。「いいねー」「いいよねー」「あの曲なんか、ほんと最高だよねー」くらいまでを語り合うのは気持ちいいことだけれど、それ以上に踏み込んでいくのはどうも、トゥーマッチだ。ぼくはぼくの部屋でひとりで聴いていればいいような気がする。そしてコンサート会場などで、同じ思いを持った人々とステージを見上げていれば、それでいいような気がする。

なんでもことばにして、なんでも共有しようとしなくて、別にいいんだよ。そうじゃない「好き」のありかた、それでこそ育っていく「好き」のかたち、忘れちゃだめだよ、おれよ。