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インタビューというより、おしゃべり。

ほぼ日・奧野武範さんの本が届いた。

タイトルは『インタビューというより、おしゃべり。 担当は「ほぼ日」奧野です。』という。ほぼ日でひときわ風変わりな、というか、ひとり独自路線で黙々とインタビューを重ねている奧野武範さんによる、インタビュー選集だ。もちろん「黙々と」ということばは、インタビューを形容するのにふさわしくない。けれども奧野さんのインタビューと、そこに臨む姿勢はどうも「黙々と」の語がふさわしい気がする。

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巻末では、奧野さんによる「あとがき」の代わりに、ぼくが奧野さんに「インタビューについて」というお題目でインタビューをさせていただいた。ああ、なんか入れ子状態になってわかりにくいだろうか。要するに「古賀史健が奧野武範さんに聞く」コンテンツが入っている、ということだ。紙幅の都合上、大幅にカットせざるをえなかったのだけれど、とてもたのしいインタビューだった。

タイトルにもあるように、奧野さんは自身のインタビューについて、「インタビューというより、おしゃべり」だと語る。じゃあ、奧野さんがラジオパーソナリティーみたいな「おしゃべりの達人」なのかというと、きっと違うだろう。本来は「黙々」のひとだと、ぼくは思う。

しかし、だ。奧野さんの担当されたインタビューを読むと、一般的な聞き手(インタビュアー)よりもたくさん、奧野さんがしゃべっている。しゃべりながら話を整理したり、しゃべりながら相手のことばを咀嚼したり、ただふつうに驚いていたり、質問ともひとり言ともつかない奧野さんのことばが、たくさん残されている。自分だけの「聞きたいこと」はしっかりと持ちながら、おしゃべりをしに行っているのだ、奧野さんは。


古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』という本のあとがきに、糸井さんがこんなことを書かれていた。

 インタビューをするのに、どうやったらいいかという質問をされることはよくあるのだけれど、インタビューのされ方を訊かれたことはあんまりない。インタビューをされるのにも、ほんとうは技術が要ると思うのである。インタビューされる側の技術とはどういうものなのか。それは、「いい正直になれる」ことである。
 ほんとうは「正直になれる」だけでよいのだろうけれど、「わるい正直」というものもあるのだ。正直を逸脱してしまう正直は、迷惑なものだ。(中略)それで人やじぶんを傷つけてしまうことがあるし、「わるい正直」というのは「正直でない」ことだったりもするので困る。

奧野さんは、日本を代表するような俳優さんにインタビューするときも、いわゆる市井の人びとにインタビューするときも、同じように相手を「いい正直」にさせるなにかを持っているのだと思う。そしてそれは手練手管のテクニックなどではなく、「おしゃべり」なのだ。


英語では、面接のことを「インタビュー」と言う。そして質問を読み上げる面接官のようなインタビューをするライターさんは、とても多い。奧野さんのやっていること、そしてぼくもめざしていきたいと思っていることは、やはり「インタビュー(面接)というより、おしゃべり」なのである。