はじめて「ネーム」に触れたときの話。
以前、ある漫画家さんから「ネーム」を見せていただいたことがある。
新連載のいちばん大事な第一話、その下書きとでも言うべきネームである。おそらくネームの描きかたは、漫画家さんによって大きく違う。かなり緻密な「下書き」を描く漫画家さんもいれば、サラサラッと人物の配置とセリフだけを描く漫画家さんもいる。ぼくが見せていただいたのは、後者のネームだった。コマ割りがなされ、人物が入る部分がマルで囲まれ、山田なら「山田」と人物名が記されている。そしてフキダシのなかにセリフが書き込まれている。言ってしまえば、ただそれだけのものだ。
けれどもそれがもうすでに、おもしろかった。「絵」と呼ぶべきものがひとつも描かれていない、マルと人物名とセリフだけで展開される漫画(らしきもの)がもう、抜群におもしろかった。
はじめて触れる「ネーム」に興奮したぼくは、考えた。
そもそも漫画に、絵は必要なのだろうか。どうやら漫画は、かなり記号的にできているらしい。それであれば、もはや絵は文字どおりの「記号」にしちゃってもかまわないのではないか。少なくとも、そういうジャンルの漫画があってもいいんじゃないか。場合によってはそちらのほうが、想像力をかき立ててくれるのではないか。
まさに凡人の浅知恵である。「そんなもん、絵がなきゃおもしろくないよ」という正論はもちろんのこと、小理屈に走るぼくは大事なことを忘れていたのだ。
あらゆる漫画家さんは、「絵を描くことが好き」から出発しているはずなのだ。「おもしろい話をつくるのが好き」ではなく、とにかく漫画が好きで、絵を描くのが好きだった。それだからこそ、たくさんの漫画を読み、絵を描いて、それが得意になっていった。
その根っこにある「好き」を奪うなんて、そもそもの発想が間違っているだろう。描きたい絵がなければ、おもしろい話だって浮かばないだろう。
子どものころ、ぼくは漫画家になりたかった。たくさん漫画を描いていた。それでも漫画描きを継続できなかった最大の理由は、絵を描くことがそんなに好きじゃなかったからだ。
漫画家の人たちを見ると、いいなあと思う。好きだったんだろうなあ、好きになれたんだろうなあ、と憧れる。まあ、本職の方々からすればそんなに簡単な話じゃないんだろうけれど、やっぱり根っこの「絵を描くことが好き」は、強いと思うのだ。