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ものの食べかた、話の聴きかた。

好感度、ということばとは少し違って。

なぜか好かれる、という人たちがいる。話術にすぐれているわけでもなく、絶世の美男美女ってわけでもなく、媚びたりへつらったり処世の術に長けてるわけでもなく、なぜか好かれる人。弟性や妹性、または後輩力とでも呼ぶべき力に富んだ人。

そういう人たちの多くは、「ものの食べかた」に、好かれる要因があるのではないかと思う。出された料理をおいしそうに食べる力。そして——たぶんここが大事なのだけれど——それをきれいに食べきる気持ちのよさ。上品とまでは行かなくとも、下品できたない食べかたにならず、たのしく見事に食べてくれること。それだけでもう、一緒にいてたのしいものだ。また誘いたくなるものだ。瀬尾まいこさんの『そして、バトンは渡された』は、一冊まるごとを通じてそのことが描かれた作品だった。

で、ここでの「食べかた」はそのまま、話の「聴きかた」につながっているはずだ。聴きかたの見事な人はそれだけでまわりから好かれるものだし、必要とされるものだ。どんなにかしこくて話術に長けていても、「聴きかた」の雑な人は、なかなか大事にされづらい。

お笑い芸人さんたちの影響か、最近いろんな場面で「爪痕を残す」というフレーズを耳にする。たとえば会合や会食の場で、あるいはソーシャルメディアの空間で、自分を印象づけようとあれこれ工夫を凝らす人たちが、わりと大勢いる。それはなんというか、出された料理を食べ残したまま、あれこれと「おれの舌」を語るような行為だ。


ぼくがうちの犬を愛おしく思う気持ちのなかには確実に、どんなごはんもきれいにたいらげてくれる、がある。食べものという愛情を差し出した側にとって、なにものにも変えがたい返事なのだ、それは。

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タイトル
『あおじるを飲み干したおとこ』