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知らないことを知らないと知らないままに。

知らないことを知らないと言える人になりなさい。

大切なアドバイスである。人はどうしても背伸びをしたがる性質があるものだし、たとえば知っているふりをして聞いたほうが話の腰を折らずに済む、という判断もときにはあるだろう。それでもやはり、正直な「知りません」や「教えてください」を言える人であったほうがいい。これは——少なくとも理屈や理想論としては——多くの方々が納得してくれる話だと思う。

一方で、しかし。

知らないことを知らないと言うには、一定の知性が必要であることもまた、事実なのだ。以下、やや複雑な日本語になるので、ゆっくり読んでほしい。

これは当然ぼくも含めての話だけれど、「知らないことを知らないと知らないままに知っている顔で語ってしまう人」がたくさんいるのだ。

もう少しことばを添えるなら、(ほんとうにはよく)知らないことを、(自分が)知らないと(自分で)知らないままに、いかにも知っている顔で語ってしまう、というパターンである。……って、この日本語、伝わっているだろうか。

そうだなあ。たとえばぼくはイスラム教のスンニ派とシーア派の歴史や立ち位置について、詳しくは知らない。しかし、自分がそれを知らないと、知っている。ソクラテスの言う「不知の知」、あるいは「不知の自覚」だ。知らない自分を知っているからこそ、知れる機会が訪れたときに「知りません」や「教えてください」が言える。

でも、これがイスラム教の話でなくて、もっと自分に身近なことだったら、どうだろうか。「そんなことも知らなかったの?」と言われるような。たとえば、きのう話題になっていたこの投稿。

なんとなくはわかっていたことだ。ぼく自身、ビジネス書の著者を「作者」と呼ぶことはしないし、童話作家を「著者」と呼ぶこともしない。しかしそれは、なんとなく気持ち悪いから、という感覚レベルの話でしかなく、この投稿が示すような明確な線引きがあったわけではない。そして実際、たとえばエッセイストさんのことは「作者」と呼びたい自分がいる。

もちろんこれは岩波文庫さんの表記ルールであって、日本語としての絶対解ではない。けれども誰かから「作者と著者ってなにが違うの?」と聞かれたとき、きのうまでの自分だったら「知らないことを知らないと知らないままに知っている顔で語ってしまう人」になっていたような気がする。

まあ「知らないことを知らないと知らないままに知っている顔で語ってしまう人」が恥ずかしいのは、それを「あなた、これ知らないでしょ?」と得意顔で語ってしまうところにあって、もはや「知らない」が何回登場するんだよって話だけれど、実際そういう人はたくさんいるし、ぼくだっておのれの「知らない」を完全に知ることなんて当然できていないのである。