自分として、自分たちとして、会社として。
来年の夏までに、決めなければならない。
いまオフィスの入っているビル(築56年)が来年の夏、ついに取り壊しになるらしく、それまでに新オフィスを探さなければならない。このビル、わりと気に入っていたのだけど、取り壊しとあらば仕方なかろう。次を探そう。仕事の合間に、不動産サイトをめぐるなどしてナイスな条件の物件を物色している。
しかし、ここでひとつ困ったことがある。
せっかく引っ越すのであれば、いまより広いところがよかろう。そして築年数にしても、いまよりあたらしいところのほうがよろしかろう。いまよりもオシャレで、便利で、たのしくお客さんを呼べるようなオフィスのほうが、はたらく自分らもうれしいだろう。いまより家賃が高くなるのは、まあ仕方がない。いいところに、移ろう。
そうやって引越先をあれこれ考える作業は、とうぜん「未来」を考える作業だ。「未来の自分たち」がどうなっていたいのか、考える作業だ。
ところがこれ、考えれば考えるほどわからなくなるのだ。
たとえば、「ライター・もの書きとして」の自分や自分たちがどうなっていたいのか。それだったらいくらでも思いつく。考えもあるし、不格好ながらその道を進んでいたり、準備に励んでいる自覚もある。でも「会社として」どうなっていたいのかについては、あまりイメージが湧かない。どんな規模になりたいのか。どれくらい売上がほしいのか。何人くらいの社員が集まる会社になりたいのか。そういう財務諸表的な「ありたい姿」が、さっぱり思い浮かばない。それはぼくの長所となっている部分が2割くらいあったとしても、8割はやっぱり短所だなあと思う。
来年の夏までに、会社の引っ越し先を決める。
それはたぶん、3年先や5年先の「こうありたい会社の姿」を決めることにつながるのだろう。