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ノンクレジットのことばたち。

あれはたしか、フリーランスになって間もないころ。

いろんな場所で何度も書いた話だけれども、フリーライターとしてのぼくが最初に請け負った仕事は、日帰りバスツアーのチラシ、その案内文だった。勤務場所は、板橋区だったか練馬区だったかの印刷会社。たとえば「日光・鬼怒川温泉ツアープラン」みたいなものがあったとする。集合場所や集合時間、解散に至るまでの行程表を入力するのは、「入力事務」としてアルバイトに来ていた女の子たちだ。彼女らが入力を終えたファイルにぼくが、100文字にも満たない案内文をポチポチ入れていく。「大人気! 紅葉の季節に魅惑の日帰りプラン登場! 鬼怒川温泉の足湯に浸かって……」みたいな文章だ。ぼくにあてがわれた机には数冊の旅行雑誌や過去のチラシが置かれており、それを参考によろしく書いてくれ、というオーダーだった。ライターというよりもほとんどオペレーターと呼ぶべき作業で、実際ギャラも時給制だった。東京に知り合いもおらず、SNSもなかった時代、よくもあんな場所からここまでやってこれたものだと、他人事のように感心する。

とはいえ、あの印刷会社に通っていた数週間のうち、自分の価値観をおおいに揺さぶられる発見があった。


「ことばは、誰かが書いている」のだ。


自分がいま、到底生活の足しにならない時給で日帰りバスツアーのチラシに案内文を書いているように、あるいはその行程表にある「新宿駅 7:30集合」などの文字を事務のアルバイトたちが書いているように、世のなかにあふれるすべての文字と数字は、誰かが書いている。はじめからそこにあるのではなく、機械が勝手に書くのでもなく、誰かが目や耳や手やあたまを使って、ぜんぶ人が書いている。

そう気づくともう、街を歩いていても、スーパーで買いものをしていても、電車や飛行機に乗ってるときでも、「うわっ、ここにも文字が!」「これも誰かが!」「こんなところにも!」と、洪水みたいに文字が押し寄せ、それぞれを書いた名も知らぬ人びとの思いや生活や人生に、あたまがくらくらした。


いやー、なんかさ。SNSの普及とともに「匿名であること」はよくないこととされたり、卑怯なことと見做されるようになってきたけれども、そしてそれはかなりの部分でそのとおりだと思うけれども、ぼくらの日常のほとんどは「讃えられることもない、匿名の人びと」の書いたことばで支えられいるのだし、無事に回っているんだよねえ。

バスツアーの案内文、あのオペレーターみたいな仕事、ほんとにやっといてよかったっす。