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本音で語り合うことのむずかしさ

「ちょっとめんどうな話になるだろうな」「ちゃんとうまく伝えられるかな」と思いながら、書いてみたいと思います。この余計な前口上、逃げを打っていると言われればそうなのかもしれませんが、ほんとにそう思っているのだから仕方ありません。

「本音で語らうこと」についてです。


こんなぼくにだって友だちはいます。信頼できる仕事仲間もいます。へべれけに酒を飲み、千鳥足で天を仰ぎ、「よーし、もう一軒いこーっ!」なんて騒ぎ呆けるバカ友もいます。

けれどもたまに思うんです。「ぼくは、ぼくらは、本音で語り合っているのだろうか?」と。

たとえば、本音で語り合っているはずのミーティング。この席でぼくらは、ほんとのほんとに本音をさらけ出しているのだろうか。どこか虚勢を張っていたり、耳に気持ちいい常識的な「正解」のボールを打ち返したり、その打ち返す速度に満足感を得ていたり、聞きかじりの単語で現役感を演出したり、なんというか、そんな「本音とかけ離れたこと」ばかりに時間を使っていないだろうか、と。

そしてたぶん、「本音で話せない人」というのは、目の前の相手に気を遣った結果、そうなっているのではありません。もっともっと根っこのところを掘り起こしていけば「じぶんの本音がわからない」から、本音で話せないのです。


たとえば相手の本音を引き出そうと、あえて下ネタを振る人がいます。下ネタを語ることで「わたしは素っ裸ですよ」をアピールしようとする人がいます。けれどもそれは、ほんとのほんとに助平な人にとっての「本音」であって、ふつうの性癖しか持たない人間にとっては「本音のフリした虚言」に近いはず。


わたしの本音はどこにあるのだろう。
ほんとのほんとは、どう思ってるのだろう。

それを知るのは、とってもむずかしいことです。だって、その入口には「バカなやつだと思われたくない」という確実な本音があるわけですから。


それでもやっぱり、じぶんの本音を知ろうとすること。

これをあきらめちゃいけないと思うんです。