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鑑賞の心構え。または鼻炎薬の教訓。

たとえば腹が痛くなったとする。

いざってときの常備薬、ラッパのマークの正露丸を飲む。するとほとんどの場合、1分と経たないうちに腹が落ち着く。いや、本気で腹を下したりした場合には当然そうはいかないのだけど、たいていの腹痛——というか腹にうごめく不安感——は、飲んですぐにおさまる。少なくともぼくと正露丸は、そんな関係にある。そして思う。これって「気持ち」の問題だよな、と。いわゆるところのプラシーボ、「正露丸を飲んだぞ」の気持ちが、腹の不安を鎮めているんだよな、と。

現在ぼくは、たまらなく目がかゆい。鼻もぐずぐずだ。調べてみると、なるほどたしかに本日の花粉飛散量はすごいらしい。

けれど、どうだろう。これも「気持ち」の問題ではないのだろうか。ぼくが渋々ながらも自分が(春の)花粉症であることを認めたのは、去年のことである。一昨年までのぼくは、自分が花粉症であることを拒否していたし、実際にさほど難儀することもなかった。5年前とかであれば、もう完全に花粉無感症だった。これは身体が花粉アレルギーに変化したというより、気持ちが花粉症に屈していった、ということではないのだろうか。

たとえばこの春、ぼくは鼻と目の症状を劇的に改善する市販薬を発見した。これさえ飲んでいれば大丈夫、と思えたし、かなり大丈夫だった。そして先週、カッキーこと柿内芳文氏に面会した際、彼は重度の花粉症に苦しんでいた。フレンドシップの一環として、ぼくは彼に先の薬を推奨した。これを飲んだらピタッとおさまるよ。なんならここで一錠、飲んでみる?

すると彼は「効かないんです、それは」と拒絶した。「飲みはじめのころはぼくも効いたんですけど、一週間もしないうちに効かなくなったんです」と断言した。「ダメですよ、その薬は」。

さて。これがぼくの気持ちの弱さなのだろう。いま、先の薬を服用していながら、ちっとも効いた感じがしない。目はかゆいし、鼻もひどい。薬のせいではないと、ぼくは思う。「効かない」と断言されたことによって、気持ちが弱ってしまっているのだ。


以上の話はわりとなんにでも言えて、たとえば本や映画やニューアルバムやの評判も、仕入れすぎないほうがよいとぼくは思う。「ほかの人がどう評価しているか」とは関係なく、むしろ自分が「世界で最初の読者」となったとき、その作品をどのように味わい、評価するのか。ここで迷うことなく100点満点の大絶賛ができたり、あるいは0点をつけることができる人を、ぼくは信用する。というか、ぼく自身そういう人間でありたいと思う。

ほめることや否定することに、臆病になっちゃダメなのである。