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その服、その靴を選ぶ、もうひとつの基準。

洋服を選ぶ基準は、人それぞれにあるだろう。

価格が大事だという人、ファッション性を重視する人、素材や重量、ポケットの数など機能性に着目する人、あるいはブランドを大切にする人。いずれも重要な項目であり、洋服も靴もバッグも、そのすべてをかなえるものであることが望ましい。

ただしぼくは、そこにどうしても追加して考える要素があるのだ。


戦闘力である。

たとえば夏のビーチサンダル。履けば涼しかろうし、開放的な気分にもなろう。なんとなくのレジャー感、また「仕事先にもビーサンで現れるおれ」の無頼ぶった気分なども味わえるのかもしれない。

しかしビーチサンダルは、いかにも戦闘力が弱い。敵に襲われたらどうするのだ。戦うこともできないし、駆け足で逃げることもできないぞ。50歳を超えてもなお、そう思ってしまうのである。

同様に冬のマフラーも、「これを掴まれたら一発だな」と思う。いわんやネクタイなんてもってのほかだ。そりゃあ首元のマフラーが必要な寒さもあれば、ネクタイが必要な場もある。ぼくだってそこは従う。けれども首になにかを巻いているときには、つねに敵に掴まれないよう、細心の注意を払って歩いている。地下鉄のホームとかを。

おまえはなにを考えているんだ。誰と戦っているんだ。多くの人がそう思うだろう。ぼくも思う。しかもぼくは好戦的な人間では決してなく、拳を交えるような喧嘩など、高校一年生が最後だ。名前も忘れた「まっちゃげ」というあだ名の同級生と、よくわからない理由で喧嘩になった。そしてよくわからない喧嘩にありがちな、お互いがふにゃふにゃに揉み合って、見るに見かねた見物人らに制止されて終了、という情けない終わり方をしたと記憶している。まっちゃげ、いまでも元気に暮らしているだろうか。

と懐かしんでいる場合ではない。問題は戦闘力だ。

ぼくが若いころ、ワークブーツが流行した。ドクターマーチンとかの、爪先部分に鉄板が入ったブーツだ。ばったもんを購入したぼくは、みるみる気が大きくなった。踏まれても痛くない、蹴ったときの破壊力はすごい。まるで足先にメリケンサックを装着したような気分だった。

一方でワークブーツは重い。長距離を歩くと、てきめんに疲れる。逃げ足は遅いし、走って逃げられる距離も長くないだろう。そう考えると、こちらから喧嘩を売りまくるわけでもない自分にとっての最強の靴とは、ランニングシューズであるようにも思われた。軽さと動きやすさこそが、巻き込まれ型のストリートファイトには必要なのだと結論づけた。

そうやって記憶を辿っていくと、けっきょく90年代に流行ったワークブーツが問題だったのだ、と思えてくる。あそこで味わった万能感が、自分の服飾選びに「戦闘力」なんて項目を設けさせ、いまなお運動部員の休日みたいなファッションを愛好させているのだと思えてくる。

けれど、同じ時代にワークブーツの流行を味わった同世代人で、戦闘力が云々とか言ってる人を見たおぼえがない。


まあ、ぼくは人一倍臆病なんだろうな。それで「ここで敵に襲われたら」なんて考えてしまうんだろうな。この年になって、ようやく自分の弱さを受け入れられるようになってきた。