心のバランスを保つために。
やっと話せる。
いつの間にか遅筆家になってしまったぼくは、ひとつの本を書き上げるのに半年や1年、ときには数年かかるのが当たり前になっている。年間15冊とか書いていたころの自分からすると「大層なご身分ですなあ」である。「そんだけ時間をかけていいんなら、そりゃあいい本だってできるでしょう」と。なんといっても当時のぼくは、2週間で1冊書いていたのだ。
けれども遅筆には遅筆の悩みというのも当然これはあって、その筆頭が沈黙である。
いま書いている本について、担当編集者やその他の限られた関係者以外、だれにも言ってはいけない。いや、べつに守秘義務があるわけでもなく、公言してもいいっちゃいいんだけど、気持ちとして言えない。言えばことばが、その思いが、煙のように消えてしまいそうな気がする。あるいは、言ったことばに自分が縛られてしまいそうな気がする。結果、だれにも言えないままじっと沈黙を守り、1年なら1年、ひたすら原稿と向かい合う。おもしろいのかおもしろくないのか、なにか壮大な「やらかし」をしてしまっていないか、不安を押し殺しながら沈黙の海に潜り込む。
先週の金曜日におしらせした『さみしい夜にはペンを持て』も、1年以上にわたる沈黙のなか、つくられた本だ。
本を書くライターさんのなかには執筆中に精神のバランスを崩してしまう人も多いのだけど——そしてぼくも崩したことはあるのだけど——その最大の理由は、本を書くという作業の「終わりのなさ」と、沈黙の海が持つ「だれにも言えなさ」にあるのではないかと思っている。
じゃあ、現在の自分はどうやって終わりのない沈黙に耐えているのか。きのう糸井重里さんが「今日のダーリン」でこんなことを書かれていた。
そうだ。まさに締切のある本を書いているときのぼくらは「ひとつのことで頭がいっぱい」になっているのだ。そうじゃないと書けないとも言えるし、締切に間に合わないとも言える。ほかのことを考えてる余裕なんて、どこにもないように思える。
けれども現在、ぼくはどんなに忙しい日であっても、ここで note を書いている。いま取り組んでいる本の話から離れ、どうでもいい「きょう思ったこと」や「最近考えていること」、ときには「書きながら考えたこと」を書いている。
そうやって「ひとつのことで頭がいっぱい」を——その「酔い」や「狂い」を——退け、なんとか精神のバランスを保ってきたのではないだろうか。
直接そう書いてはいないけれど、『さみしい夜にはペンを持て』のなかにはかなりそれに似通った話が出てくる。書いてよかったと、あらためて思っている。そしてこの本についておおっぴらに話せるところまでたどり着いたことを、うれしく思っている。
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