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嘘はたやすく、ほんとうは厳しい。

この週末、かなりすごいことが起こった。

燃え殻さんのデビュー作『ボクたちはみんな大人になれなかった』が、売れに売れ、売れまくっているのである。

発売の2週間ほど前、ぼくは燃え殻さんと対談させていただいた。その席で燃え殻さんは、「この小説を書けたことには満足しているし、成仏できた感がある。でも、売れる気がまったくしない」とこぼしていた。

事前に念校のゲラ刷りを読ませていただいていたぼくは、かなりの自信をもって「大丈夫ですよ。届きますよ」と言っていた。それは小説の内容がすばらしかったことはもちろんとして、内容と同じくらいに装丁がすばらしかったからでもある。

印象的な写真と題字、それからタイトル。このあたりが「いい」のはもちろんなのだが、なんといっても本書がすばらしいのは、帯である。

言うまでもなく『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、小説家・燃え殻のデビュー作だ。そしてひとりの小説家として考えたとき、やはり「燃え殻」はふざけた名前だ。そもそもデビュー作とは、どこの馬の骨とも知れない輩が書くものである。しかし燃え殻という筆名は、もはや馬の骨であることさえも怪しい。しかも燃え殻さんは、SNSをその出自とする作家だ。一般書店の文芸コーナーに置かれたとき、保守的な小説ファンがいちばん「けっ!」と思うタイプの作家、ということもできる。

いったい燃え殻という人物を、どう紹介し、どう説明するのか。

こういうとき、多くの本では「作者のすごさ」を編集サイドの言葉によって、補おうとする。つまり、「ツイッターで大人気!」とか「ウェブ連載で話題沸騰!」とか「○○○万アクセスが殺到した、究極の純愛小説!」とか、そんなあおり文句を入れようとする。すごい感、盛り上がってる感、知らないと損するぜ感を、演出しようとする。

あるいは、そうしたあおり文句さえ浮かばないデビュー作では、「期待の俊英が放つ、瑞々しいデビュー作!」などの文言をつける。誰の、どんなデビュー作にも該当してしまう、要するに、なにひとつとして語っていない文言だ。



対談よりずっと前、燃え殻さんと一緒に、編集者のMさんにお会いしたとき、ぼくは「帯はどうするつもりですか?」と訊いた。心配なのは、そこだけだったからだ。Mさんは「推薦コメントを並べるだけにしようと思います」と即答した。だったらもう、勝ったようなもんだ。ぼくに言うべきことは、なにもなかった。


この帯、山ほど並んだ推薦文には、嘘がない。

誇張も、脅かしも、背伸びも、比較も、なにもない。

ただ、どこの馬の骨とも知れない男の小説に揺さぶられた人びとの、言葉だけがある。その揺れが、すべてを物語っている。だから、とても気持ちがいい。


これだけの人たちを動かした燃え殻さんもすごいし、サポートに徹した編集のMさんもすごいと思う。


タイトルの箔押しについては正直いらなかった気もするけれど、これはもう、「やりたかった」んだよね? それはそれで、大事なことだと思います。帯の末端に潜り込ませていただくことができて、おおきな事件の証人になることができて、とても幸せです。