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謙虚な人の、謙虚な理由。

実るほど 頭を垂れる 稲穂かな

具体的なイメージを伴った、非常に秀逸なことばである。「立派な人は、だいたい謙虚であるものだ」「ほんとうに偉い人は、ことさら偉そうにしないものだ」。そういう意味で語られることばであるし、社会経験を重ねるほどそうした人に会う機会は増えていく。

しかしながらぼくが秀逸だと思うのは、そこに稲の成長過程が描かれているところだ。

稲だって、最初から頭を垂れていたわけではない。むしろ若いときには田畑の水や養分を吸収しまくり、ぐんぐんに天をめざし、ふんぞり返っていた。おれがおれがと前に出て、調子に乗りまくっていた。そうでないと成長もかなわず、稲穂も実らない。

だが、傍若無人で生意気な成長期を経てじゅうぶんな稲穂を実らせたとき、彼は静かに頭を垂れる。

ああ、思えばわたしの稲穂が実ったのも、田植えをしてくださったあの人のおかげでした。田畑のおかげ、雨のおかげ、お天道さまのおかげでした。いやいや、お恥ずかしいことにそんな自明にも気づかず、まるで自分ひとりで実らせてやった、くらいに思っていました。みなさんのお力添えがなければわたしなんて、いつ枯れていたとも知りません。だからさあ、ご自由に稲穂を刈りとってください。みなさんの滋養としてください。これはもともと、みなさまからお預かりしただけのものなのですから。

そんなふうに頭を垂れる。


ぼくはときどき謙虚な人だと言われるのだけれど、人間として謙虚なのではまったくない。調子に乗っていたり、まわりに攻撃的だったりした時期も間違いなくあった。嫉妬深くて攻撃的だったのは20代のころ。調子に乗っていたのは30代の前半。当時は垂れるだけの頭をひとつも持ち合わせていなかった。それが30代後半から40代にかけて、ようやく落ち着いてきたというか、まわりが見えるようになった感じだ。まわりが見えさえすれば、人はおのずと頭を垂れるのではないかと思う。

世話になった人たちの目には見えない重力が、その頭を垂れさせるのだ。