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論理的であることと、理屈っぽくあること。

食後にコーヒーを飲む。

コーヒーにはカフェインが含まれている。そしてカフェインには胃液の分泌を促す作用がある。つまり、食事をとったあとにコーヒーを飲むと、消化を助け、からだをラクにしてくれる。なんとなく習慣になっている食後のコーヒーは、じつはそこそこ理にかなった行為なのだ。いや、むしろ生理学的な意味で理にかなっていなければ、このような習慣が根づくはずがないのだ。

……といった言説を目にして、じゃあわたしも食後にコーヒーを飲もう、と考える人は一定数いるだろう。論が理にかなっていることは、とてもとても重要だ。

けれどもそんな理屈で説明されるより、「食後に飲むコーヒーのおいしさ」を情感たっぷりに語ったほうが、「わたしも飲んでみたい」を喚起するものだったりする。小説でも映画でも漫画でも、食事のシーンを通じて読者(観客)の空腹を誘うことができれば、もう半分勝ったようなものだと言えたりする。メシがうまそうな小説はいい小説だし、メシがうまそうな映画はいい映画だ。それくらい断言してしまってもいいような気がする。

で、自分の感じた「食後に飲むコーヒーはうまい」を、「うまい」だけで押し切る自信がないとき、説明しきれる自信を持てないとき、先の「カフェインには胃液の分泌を促す作用があり……」的な理屈を持ち出して、おのれの主張を正当化しようとする人があらわれる。この場合の理は、まさに理屈としてしか響かない。論理的であることと理屈っぽくあることは、ぜんぜん別なのである。


いやね、最近知ったこちらのアカウント(そしてツイート)。こういう理屈をこえた「だってかわいいんだもん。以上」的な、いい意味での独断と偏見にあふれた「好き」を表明するコンテンツがツイッター上に増えている気がして、それはとてもいいことだなあ、と思うんですよね。そういう人たちばかりをフォローしていたいなあって。