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妄想のサイズはことばで決まる。

池波正太郎に『男の作法』という本がある。

『鬼平犯科帳』や『剣客商売』のシリーズで人気を博し、食通としても知られる彼の、粋人かくあるべし的なエッセイだ。そのなかで彼は、「うどん」についてこう述べている。

 大阪のほうの人がよく書いているじゃない。
 「東京のうどんなんか食えない……」って。
 ああいうのがばかの骨頂というんですよ。なんにも知らないんですよ。確かに東京のうどんは、ぼくらでもまずいんですよ。おつゆが辛いんだから。うどんはやっぱり上方の薄味のおつゆのほうが、ぼくらでもうまいんですよ。
 だけどそれは、それぞれの土地の風土、あるいは生活によって、みんな違うわけだからね。やたらに東京のうどんをこきおろす大阪の人は、本当の大阪の人じゃないんだよね。たいていお父さんが播州赤穂だとか備前岡山なんだよ。そういうところから大阪に来て、自分は浪速っ子になったつもりでやるんだよ、東京の何はよくない、大阪のほうがずっといいとかね。
 本当の大阪の人は決してそういうことを言いませんよ。

『男の作法』 池波正太郎

たしかに、ぼくが子どものころ、福岡の地においても東京の悪口といえば「うどんの汁がまっ黒」が定番だったように記憶している。「汁が黒すぎて麺が見えない」なんて話を盛るおとなたちもいた。それはとんだ野暮天、ばかの骨頂なのだ、と学んだ。将来自分が東京に行くことがあっても、そういう野暮は言わないようにしよう、と。

きのうツイッターに、食を中心とした「上京して驚いたこと」を書いたところ、けっこうなリアクションがあった。

で、なんとなくの傾向として思ったのは、いまも地元に住んでいる人たちほど「東京ありえない!」の語調がつよく、地元から離れて暮らしている人たちほど「わかるわ〜」なテンションになっていく。自分が普通(スタンダード)じゃない、の風を何年も浴びているうちに攻撃の棘が鈍磨していくのだろう。

正直いうとぼくももう、福岡で過ごした時間より長く、東京に住んでいる。いま刺身醤油がほしいとは思わないし、とんこつラーメンも「選択肢のひとつ」でしかないし、スーパーにちゃんぽん玉がないことも当然のように受け入れている。福岡を愛する気持ちに変わりはないものの、「いつかは故郷に帰りたい」みたいな気持ちは皆無で、もしも東京を離れるときが来るのならまだ住んだことのない土地に住んでみたい人間だ。

ああ、上京して以来ずっと「この仕事をするなら東京じゃないと」と思っていたけれど、働く場所の常識がぐるんぐるんにひっくり返っている昨今、もしも「移住」に近いくらいおおきな引越をするなら、おれはどこに住むのかなあ。こういうとき、英語が達者な人だったら妄想可能な範囲が地球儀サイズになるんだろうなあ。それはまじでうらやましいよ。