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インタビューという場が持つ可能性。

何年か前に、こんな note を書いた。

ぼくは「言いたいこと」をあまり持っていない。

たとえば「いま国会を賑わせているあの問題について、お前はなにも言いたいことがないのか」と問われたら、たぶん「ない」と答える。なんと嘆かわしいやつだ、お前のような人間がいるからこの国の民主主義は……とかなんとか言われても、ないものはない。「言いたいこと」は、ないのだ。

ただし、「思っていること」はたくさんある。政治にかぎらず、経済であれ、社会問題であれ、芸術やスポーツまわりのことであれ、「思っていること」は山ほどある。けれどもきっと、ぼくは「思う」と「言う」のあいだの距離が、騒々しく忙しい人よりずっと遠いのだ。

(中略)

みんな「思って」いるんだよ。なかなかことばが出てこないのは「言う」までの距離が遠いから、それだけなんだよ。

ソーシャルメディアばかりを眺めていると、世のなかは「言いたいこと」にあふれた、「言う」が大好きな人ばかりで構成されているように感じられるものだ。しかし、決してそんなことはなく、「言う」を苦手としながら、ただじっと「思う」の日々を過ごしている人たちが大勢いる。とくに日本人の場合、そちらのほうが大多数だろう。

だからこそインタビューには価値がある。

みずから「言う」に踏み出そうとしない人たちであっても、訊かれれば、答える。思ってきたこと、思っていること、自分ひとりでは言葉にしなかったかもしれないことを、静かに語り出す。思っていないわけはなく、考えていないわけもないのだ。インタビューはある意味、「思う」と「言う」の距離が遠い人たちに手渡す特急券のようなものだ。

きのうから連載がはじまった、全4回のインタビュー。

ここでもぼくは、訊かれなかったら(自分から)言葉にして言わなかったであろうことを、たくさんしゃべっている。こちらの連載は明後日まで続き、来週からはまた別のインタビューが掲載される予定だ。

取材・執筆・推敲』の刊行後、インタビューされる機会が増えてきたこともあって最近、インタビューという場やスタイルの可能性をいろいろと考えている。「思う」と「言う」の距離が遠い人たちに、もっとその場を提供していきたいなあ、とあらためて思うのだ。場そのものを設計していくことも含めて。

あ、『取材・執筆・推敲』に関して、インタビューのお申し込みなどあればお気軽にどうぞ。おしゃべりな人間ではありませんが、訊かれれば答えられること、たくさん持っていると思います。


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(バトンズ・ライティング・カレッジ、応募締切は5/31です)