見出し画像

學校と学校、聴講と受講。

「ほぼ日の學校」が開校した。

さっそく尾畠春夫さん、谷川俊太郎さん、林真理子さん、みうらじゅんさんなどの授業を覗いてみる。スマートフォンで、覗いてみる。書きながらあらためて思うのは、この「ほぼ日の學校」というアプリと、「覗いてみる」ということばの相性のよさだ。

むかし、まだ中学生や高校生だったころ、「聴講生」ということばにワクワクしたおぼえがある。なんでも聴講生とは、正規の学生ではないけれど大学に出入りし、こっそり授業を聴いている人らしい。いや、ほんとうの聴講生は別に「こっそり」なんかしていない人たちのことを指すのだけれども、ぼくが本で読む自称聴講生たちは、ほんとにこっそりよその大学に潜り込んで、タダでその授業をたのしんでいるらしかった。美術史の授業、社会学の授業、哲学の授業に経済学の授業。行きたい放題の選びたい放題。それはずいぶんたのしい毎日だろうなあ、とあこがれたものである。

で、今回の「ほぼ日の學校」。

いくつかの授業を聴いてみたぼくの感想は、まったく聴講生の気分だった。どこかでやってるたのしい授業を、誰かが話しているおもしろい話を、こっそり聴講している。出欠もなく、テストも単位もなく、出入り自由な空間で「次はどの教室に行こうかな〜」とキャンパスをぶらぶらしている感じ。今後授業がわんさか増えていけば、もっともっとその自由は拡大していくのだろう。やっぱり「テストがない」とか「評価しない/されない」ってものすごく大事なことで、たぶんそれだけで教えかたも学びかたも変わるんだよなあ。


一方、ぼくはぼくでいま、自分の学校を準備している。出欠もあれば提出物と評価もある、ガチの学校である。学校について迷っているところはひとつもないのだけれども、「ほんとうにできるのかな?」の不安は若干ある。先週末、糸井さんにお会いしたとき少しだけその不安を漏らすと、糸井さんから力強い(とても大事な)アドバイスをいただいた。

もちろんぼく個人にかけていただいたアドバイスなので、ここで軽々に明かすことはしないけれど、「フリーランス出身の人が陥りがちな罠」との文脈から、ご自身の経験も踏まえ、ひとつの指針を教えていただいた。

受講生のみなさん、もう教科書は読んでくれたかな。ぼくのなかではこの教科書、今回の学校をやり終えるところでようやく完結するものなんですよねー。