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遅読家の言い訳。

本を読むのが遅い。

年齢を重ねるごとに、つまりは読書歴を重ねるごとに、その遅みに拍車がかかっている。そりゃあ、仕事として読む本は、ある程度の速度で読める。そうじゃないと仕事にならない。しかし、趣味とも仕事ともいえない範疇にあるふつうの本はもう、てきめんに遅い。いったい、なぜか。

一行一行、凝視しながら読んでいるわけではない。なんでもないパラグラフを読むスピードに関しては、ほかの方々と変わらないか、むしろ速いくらいのはずだ。「ここはそれほど意味を吟味せず、ななめに読めばいいな」みたいな勘どころも、昔よりはわかっている。

ただ困るのは——おもしろい本であるほど——読んでいて意識がとっちらかるのだ。たとえば、そうだなあ。先日、漫画家でエッセイストのハルノ宵子さんがお父さんである吉本隆明さんについて書いたエッセイ『隆明だもの』を読んだ。そこにたとえば、こんな一節がある。

父は大学教授などの、定期収入のある職には就かなかったし、講演も主催者側の〝言い値〟で引き受けるので、自腹で遠方まで出向いても、5万円とかテレカ1枚の時もあった。こんな〝水商売〟で、よくぞ家族と猫を食わせてくれたものだと、今さらながら感服する。

『隆明だもの』ハルノ宵子より

べつに感動的な場面でもなく、きらきら輝くような名文というのとも、やや違う。じっくり読ませるすり足の文というより、リズミカルに読んでもらうことを考えた、スキップ感覚の文だ。

しかしここで、「テレカ1枚かあ」と立ち止まる自分がいる。80〜90年代にノベルティの王様だったテレフォンカードを思い出し、そういえばおれも駆け出しライター時代、取材の謝礼でテレフォンカードをもらったことがあったなあ、とか思い出す自分がいる。そうすると思いの洪水は止まらず、財布や定期入れにはかならずテレフォンカードが入っていたよなあとか、図書券とか商品券とかよりも配りやすくて使いやすい、なにか特別なものがあったんだろうなあとか、NTTってえげつない会社だよなあとか、いろいろの余計が頭を駆けめぐり、場合によってはテレフォンカードを検索したり、関連の本をネット書店で注文したり、本から離れてしまう。

あるいはまた、「こんな〝水商売〟で、よくぞ家族と猫を食わせてくれたものだ」のくだりに、「ああ、この水商売と家族と猫って組み合わせはいいなあ。自分だったらこの水商売、ふつうに『浮草稼業』とか書いちゃうかもなあ。そして『4人家族を』とか、家計的な重みのさまを余分に足しちゃうだろうなあ。『猫』が入ることで妙なおかしみが足されていいなあ」とか、ひとり反省会をはじめてしまう。

そうして思いついたことをメモしたり、そこから本の企画を練りはじめたり、これまたいろいろの余計がはじまって読書が一向に進まない。

そんなぼくでも「没頭してむさぼり読む」みたいな機会はたまにあって、それは好きな本(好きだった本)を再読するときだ。文章や物語のいちいちにつどつど驚く必要はなく、驚いたとしても「そうなんだよ」「こういうところがすごいんだよ、このひとは」なんて頷きながら、立ち止まることなく読んでいける(ことが多い)。

本を読んでるときの心象風景って、みんなどんな感じなんだろうなー。自分にしか見えない絵を、見ているはずなんだもんなー。それを正確にスケッチする読書感想文なんて、そりゃあむずかしいよね。