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外国人の名前とオーディオブック。

外国人の名前について、考える。

たとえばミュージシャンの名前。サッカー選手の名前。大統領や首相や外務大臣やの名前。ハリウッドスターや監督たちの名前。あるいはプロレスラーの名前。ぼくはこれら外国の人びとについて、かなりの数の名前を正確に挙げていくことができる。読み間違えや記憶違いは、ほとんどない。

一方、作家や思想家になるとこれが怪しくなってくる。わかりやすいところでいえば、トーベ・ヤンソンさんのことを長らくトーヤ・ベンソンさんだと思っていたり、ジャック・デリダをジャック・デリタと言ってしまったり、あるいは現代思想まわりの本に頻出する「エクリチュール」の語を「エリクチュール」と読んでしまったり、などなどだ。これはぼくだけがおちいる罠ではないようで、たとえばカート・ヴォネガットのことを「カート・ヴォガネット」と言ってしまう人も、よく見かける。

ここから「外国人の名前は憶えにくいぜ」と考える人も多いのだけど、そんなことはないだろう、とぼくは思う。ゴルバチョフとか、イニエスタとか、クエンティン・タランティーノとか、ポール・マッカートニーとか、そういう(よく考えたら憶えにくそうな)名前はちゃんと、憶えているのだ。


で、けっきょくこれは「その対象を語り合う環境」の有無に起因するものなんだろうな、と思っている。

ぼくはミュージシャンやスポーツ選手、プロレスラーなどについて、語り合う友だちを持って生きてきた。政治家たちの名前も、テレビを介した口伝えで知っていった。一方、ぼくは海外文学や現代思想まわりについて、熱心に語り合う友だちを持たずに生きてきた。文字(テキスト)とだけ向き合い、それぞれの名前や固有名詞を口にする機会を持たずに生きてきた。よって、いまだに「トーヤ・ベンソン」的な失敗をおかしてしまう。ズラタン・イブラヒモビッチの名前を間違えることはないくせに、「トーヤ・ベンソン」をやらかしてしまう。

そういう意味でいうと、オーディオブックから得られる知は、けっこうおおきいんじゃないかと思う。海外文学や難解な思想書こそ、オーディオブックに向いているような気がする。

「アボガド」や「シュミレーション」の間違いは、聴いても気づけないかもしれないけれど。