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勝ち負けを超えた「あいこ」の絶叫。

犬を連れて、公園を散歩していた。

小学校の3年生くらいだろうか。女の子がふたり、きゃっきゃと騒ぎながらジャンケン的ななにかをしていた。「アルプス一万尺」的な、ジャッキー・チェンの「少林寺木人拳」的な、互いに向き合い手刀を組み交わしあう的な振り付けとともに「♪あの〜子、どこの子、かわいくないね、てるてる坊主のモンチッチ!」と叫び、「モンチッチ!」と同時にジャンケンめいた勝負のポーズをとる。あいこであれば再び「モンチッチ!」。あいこが続くたびに女児たちの興奮は高まり、もはや絶叫としての「モンチッチ!」が公園内に響きわたる。

いろいろ思うことはある。モンチッチというキャラクターが、いまも子どもらに——少なくともその音だけでも——愛されていること。それを可能とするモンチッチという音の破壊力。あるいはいまどきの東京都内の子どもたちであっても「アルプス一万尺」的な遊びに興じることへのうれしみ。隙あらば拾い食いをしようとする犬の挙動に注意しながら、ぼくがいちばん「なるほどなあ」を感じたのは、あいこのおもしろさである。

近年のスポーツ界において、引き分けは忌み嫌われる傾向がある。勝負事のなかに引き分けを設けていると、たとえば試合の後半、あからさまに引き分けを狙いはじめるチームが出てきて、それは競技のおもしろみを著しく削いでしまう。やはり勝負は、互いが最後の最後まで「勝ち」を狙って攻撃し合うからおもしろいのであって、両者が引き分けを狙った、サッカーでいえば失点しないことを狙った試合展開はまったくおもしろいものではなく、場合によっては阿吽の呼吸のなかで互いに手を抜き合う、八百長めいた試合まで勃発しかねない。極力引き分けを許さず、勝ちと負けだけの試合をつくっていこう。Jリーグが一時採用していた「延長Vゴール」や「ゴールデンゴール」はこの考えに基づく制度である。

けれどもジャンケンのように、勝敗が完全な偶然まかせによる勝負事において引き分けは、すなわち「あいこ」は、とても魅力的な制度である。何度も何度も「あいこ」が続けば、たとえカラオケを誰がいちばん最初に歌うかみたいなどうでもよろしい勝負であっても、大盛り上がりする。勝ちたい欲が膨らむというより、「あいこ」が続く——勝負が続く——偶然性そのものに興奮してしまう。

この興奮はもしかすると、大相撲の「物言い」から「取りなおし」の流れに近いのかもしれない。きわどい勝負で審判席から「物言い」がかかる。大柄な審判部の親方衆が土俵に上がり、なにやら審議する。行方を見守る力士たちは、どんな結果が待っていようと心を乱さないよう、汗を拭いたり、水を飲んだり、息を整えながら審議結果を待つ。ここで審判部長の口から「両者同体と見て、取りなおしといたします!」の声が発せられれば、場内大盛り上がりである。一方「行司軍配どおり、○○の勝ちといたします!」の声が発せられると、それなりの歓声はあがっても、取りなおしほどの大盛り上がりにはならない。「あいこ」と「もう一回!」は、ただそれだけで人を興奮させるなにかをもっているのだ。加えて言うと、1980年代のプロレスには、しばしば「延長」があった。有名なところだと、アンドレ・ザ・ジャイアント対スタン・ハンセン、伝説の田園コロシアム戦である。あれも絶叫するほど盛り上がったものだけれど、きっと新日本プロレスの幹部の方々は相撲の物言いと取りなおしにヒントを得て、延長戦をおこなったのだろう。

というわけで、あいこ。勝つことよりも負けることよりも瞬間の興奮を誘うあいこ。ひと言でいえば人は、「もっと、もっと!」を求める生きものなのかもしれない。