異業種のプロと仕事をする悦び。
はじめて名刺をつくったときのことを思い出す。
会社から支給された名刺ではなく、フリーランスになってはじめて自分でつくった名刺だ。当時はまだ、名刺をオンライン注文するような時代ではなかった。池袋の印刷屋さんに行って、過去の制作事例のなかから自分のイメージに近いものを選び、紙や色、書体や文言等を調整して印刷してもらった。縦型で、水色をベースとした名刺だった。自分の名前のうえには、迷いに迷って入れた「Freelance Writer」の文字。「フリーランスもなにも、ただの無職じゃねえか」と自分の現状を笑いつつも、これからどこにだって飛んでいける魔法のチケットを手に入れたような気分だった。仕事もなく、時間を持て余していたぼくは、何度も何度もその名刺を手に取り、飽きることなく眺めていた。
いま、あのときと同じような気分で学校のサイトを眺めている。
一日に何度も訪ねては、上から下まで眺めている。まったく飽きることがない。うれしさ、気恥ずかしさ、初々しさ、そしてプレッシャー、いろんなものを感じとめながら、今日もまた眺めている。
何度眺めても飽きないいちばんの理由は、写真だ。今回、サイトに掲載する写真は幡野広志さんに撮影をお願いした。もともと自分の近影を幡野さんに撮ってほしい、との願いはあった。けれどもあるときの——たしか代官山の蔦屋書店だ——雑談のなかで、幡野さんが「ぼくは人を撮るのも好きなんですけど、ブツ撮りはもっと好きなんです」とおっしゃった。ブツ撮りとは、おおきくいえば静物撮影、商業写真の分野でいうともっぱら商品撮影のことを指す。「……幡野さんのブツ撮りって、どんなものなんだろう?」。長らく抱えていたこの好奇心を、かたちにしていただく格好の機会だと思った。人物(ぼくら)だけではなく、「本」の写真も撮ってもらおう。それをおおきく、サイトに掲載しよう。
ブツ撮りのおもしろさについて、幡野さんはこんな意味のことを言っていた。その商品をキレイに撮るだけでは、撮っていてなにもおもしろくない。その商品をつくった人たちが、なにを考えてつくったのか。どんな願いを込めてこのかたちにしたのか。そこにはどんな苦労があり、どんなドラマがあったのか。そういうことを想像(または取材)しながら撮影することがたのしいのだし、そうやって撮られたブツ撮りはかならずいいものになる。
幡野さんから上がってきた写真は、まさにそれだった。
(撮影/幡野広志)
ぼくが、とくに驚いたのはこの本の「帯を外したときの美しさ」だ。出版の仕事をしているせいもあり、ぼくはどうしても本のデザインを「帯込み」で考えるクセがある。帯の高さ(縦幅)、その紙、加工、そして色と文言。原理的には何度でも付け替えられる帯は、編集者にとっていちばん遊べる場であり、鮮度を優先した文言を入れられる場所であり、その人の個性がいちばん反映される場でもある。なので帯を外した本は、どこか「裸」になったような、心細さやバランスの悪さを感じてしまう。
(撮影/幡野広志)
ところがこの『取材・執筆・推敲』という本は、帯を外したときにこそ、本来の姿をあらわす。端正で力強い書体、箔押しの艶、うすい紫陽花色の紙と全面にかけられた特殊なマット加工、そしてこれ以上ないバランスで並んだそれぞれの文字。装幀家・水戸部功さんのとんでもない仕事だ。ぼくは幡野さんの写真を通じてようやく、水戸部さんの狙いを知り抜くことができた気がした。この本を「一生ものの教科書」として考えた場合、どうしても帯は何年も経つうちに破れたり、ジャマになって捨てられたり、紛失したりするものだ。そのとき、この本はどう生きるのか。どんな姿で机や本棚に並び、また手に取られるのか。そしてまた、一生ものの教科書が流行りにまかせたデザインであって良いのか。これらへの水戸部さんの回答が、今回の装幀なのだと(頭ではなく心のところで)理解することができた。そこまで考え抜いてくれた水戸部さんと、写真を通じてそれをわからせてくれた幡野さんには、感謝しかない。
(撮影/幡野広志)
きのう書いた戸取さんもそうだけれど、尊敬する異分野のプロたちと仕事をすると、かならず「そういうことだったのか!」と目を覚まさせてもらえる。そして彼ら・彼女らが大切にするプロとしての哲学、技術、また生き方のようなものは、ライターの仕事においてもまったく同じに大切なもので、「つくること」の本質はどの分野でも変わらないのだと気づかされる。
まだはじまってもいないのに、学校をやってよかったと心底思っている。
幡野広志さん、ほんとうにありがとうございました。