見出し画像

プレゼントの作法。

おみやげ、差し入れ、プレゼント。

ひとになにかをプレゼントすること、そしてよろこんでもらうことは、それほど簡単なものではない。むしろ、もらった側が困ってしまうようなプレゼント(気持ちはありがたいけれども迷惑なプレゼント)も多く、たとえば旅先でおみやげを選ぶ際などにも「なにがよろこばれるか」よりも「どれだったら迷惑がられないか」を基準に選ぶひとは多いのではないかと思う。

ぼくもこれまで、ひと(とくに女の子)になにかをプレゼントして、それがまったくよろこばれなかったこと、かえって迷惑そうにされたことは、何度となくある。きっとこれからだって、あるだろう。

それでも最近少しずつ、プレゼントする際のコツのようなものがわかってきた気がする。

たとえば相手が「○○の、△△がほしい」と、商品名まではっきり明言しているような場合は、当然それを贈るのがよい。よいというか、無難だ。

一方、相手の要望がわからず、好みもわからず、その他ヒントとなる材料に乏しい場合はどうしたらいいのだろうか。


むかしのぼくは、ここで「相手に似合いそうなもの」や「相手がよろこびそうなもの」を選んでいた。ヒントのないなかだから、あくまでも勘で選んできた。しかし、何千、何万、何百万とある商品群のなかから勘で選んだものなんて、外れるに決まっている。むしろ「(わたしのこと)ぜんぜんわかってない!」とマイナスな評価さえ、受けかねない。これまでいったい、なにを見ていたの、と。


で、気づいたのだ。

ノーヒントである場合には、へたに相手のことを考えず、自分のことを考えるのがいちばんなのである。「自分が好きなもの」のなかから選び、それを贈るのが、なんだかんだでいちばんなのだ。

たとえば海外旅行のおみやげとして、「あのひとはお酒が好きだから」との理由で、よくわからない現地の酒を買う。自分が飲んでもいない現地酒を、とりあえず買う。しかし、酒飲みであればあるほど酒の種類や銘柄にはうるさいもので、またおいしくない酒ほど処分に困るものはなかったりする。

だったらもう、「自分が向こうで食べておいしかったお菓子」を買ったほうが、ずっといい。相手が菓子好きかどうかわからなくても、仮に嫌いだったとしても、そっちのほうがずっといい。なぜなら、「このお菓子はこんなにおいしい」の話ができるからだ。自分のことばで、自分の体験として、そのお菓子についての「だから食べてほしかった」を、ことばにできるからだ。

ということで結局、プレゼントが上手なひとは、人生経験が豊富で、好奇心が旺盛で、教養と行動力があって、記憶力がたしかで、多様な価値観を認めているひと、ということになる。プレゼントのうまさは、「センス」ではないのだ。


以上のことは、文章にもいえる気がする。流行りのフレーズや文脈に乗っかるよりも、ただ「自分のことば」を贈ることが大切なのだ。