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完成度と、野放図さ。

むかし、ある直木賞作家に取材したときのこと。

語るべきことは語り終え、聞くべきこともほとんど聞き終えた取材の終盤、本題から二歩も三歩も距離を置き、「もうひとつ、なにか」が出ないか探り合う、終盤特有の湯上がりみたいなゆるゆるした時間をたのしんでいた。

どういうきっかけだったか忘れたが、話はマンガに移っていった。ほかの国のことはどうだか知らないけれど、少なくとも日本のマンガ家たちは小説家よりずっと豊かな才能を持ち、豊かな仕事をしている。作家は、幾人かの現役マンガ家たちの名前を挙げながら、そう言っていた。

だからこそ、と作家は続ける。

「終わらせてあげたいよね」


「終わらせて、あげたい?」
「たとえば古賀さん、○○ってマンガ、読みました?」
「ええ、もちろん」
「最終回って、おぼえてます?」
「う、うーんと……」

作家は言う。

小説家はやはり、「本」になったときのことを考えながら、原稿を書いている。書きおろしは言うに及ばず、雑誌連載でも、新聞連載でも、本になったときのことをイメージして、それぞれの原稿を書いている。だからできあがった本は、ひとつの作品として、100年や200年の鑑賞に堪えうる可能性をもっている。書きおろし小説も連載小説も、そこは変わらない。

一方でマンガは、ライブ性のつよいメディアだ。打ち切りもあるし、連載がどこまで続くものか、じつは誰にもわかっていない。連載中はそのライブ性が動力となるものの、たとえば全50巻で完結した作品にパッケージとしての魅力——全50巻を「1冊の本」として見立てたときの魅力——は、じつは少ない。100年後の読者、200年後の読者が読んだとき、その点では厳しい評価を受けてしまうのかもしれない。


「たとえば○○さんにさあ、ほんとうに好きなように、好きなところまで、自由に描かせたら、どうなるんだろうね」


たしかに長期連載のマンガを読んでいると、ある時期を境にガクッとおもしろくなくなったり、絵が乱れたり、展開が雑になったりする作品を多く目にする。けれども一方、書きおろしのようにして描かれたアート性の高いマンガは、どこか閉鎖的で、推進力に欠けているものが多い。

完成度と、野放図さ。

その中間に、「おもしろ」があるんだろうなあ。

きのう、ダーウィンのつくった「どこへどう伸びるかわからない樹形図」の話を聞いて、ふとそんなことを思い出した。


——おしらせ——


幡野広志さん『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』に、4刷目となる重版がかかりました。ぼくのもとにも、たくさんの感想や応援のことばをいただいています。ほんとうにありがとうございます。