当事者であることのむずかしさ
去年取り組んでいた本も、いま取り組んでいる本も、やたら歴史や史実に関する調べものが多い本で、それはそれでほんとうに大変なのですが、やはり勉強になります。
最近いちばん思いを馳せているのが第一次世界大戦です。
日本人にとっての第一次世界大戦は、参加はしたけどなんとなく対岸の火事みたいなところがあったり、その後の当事者すぎるほど当事者だった第二次世界大戦との比較もあり、どこかぼんやりしたものに映っているんじゃないかと思います。というか、ぼくは完全にそうでした。
でも、自分が当時のヨーロッパに生きる人間だったとして考えてみると、これとんでもない話なんですよね。いまのぼくらは歴史のお勉強として「第一次」という冠をつけて、いわば序章のようにこの大戦を理解してるけど、当時の人にとっては「World War」ですから。一次も二次もない、そのままずばりの「世界戦争」ですから。
この言葉の持つ破壊力を、当事者に寄り添ったかたちで受け止めるのは、そうそう簡単なことではありません。
あるいは、こんなふうにも思うわけです。
90年代の後半あたり、「IT革命」って言葉を、どこか安っぽいスローガンとして受け止めていた人が多かったように、当時のヨーロッパ人たちも「世界戦争」も現実感を伴わない言葉として使っていたのかもしれないと。
当事者としての自分を意識することは、当事者であるはずの人にとっても、むずかしいのかもしれません。ぼくも、いろんなことの当事者なんだよなあ。