見出し画像

信じることと、考えること。

疑似科学、という厄介なジャンルがある。

たとえば風水や占い全般、また最近だとパワースポット的な言説であれば、ひとつの「お話」として(受け入れるなり拒絶するなり)対応することができる。受け入れる人も、それが「目に見えないもの」であり「定量化できないもの」であることをあらかじめ了解して、受け入れている。

おおきく言えば宗教だってそういうものだろう。仏教学者の佐々木閑さんは著書のなかで、ゴリゴリの合理主義だったブッダの仏教から大乗仏教が生まれた理由を、「人々が『神秘』を求めたから」だとして、「理性で考えること」と「神秘を信じること」を明確に切り分け、役割分担させさえすれば、なんら問題ないと語っていた。

疑似科学の厄介さは、本来は「信じる」に属するはずの神秘を、「理性で考える」の箱に閉じ込めているところにある。

そして疑似科学をさらに面倒くさいものにしているのは、ほとんどの場合それは「健康法」の分野で語られる、というところである。

もちろん「これを飲んだらガンが治る」みたいな話は、一発アウトだ。それは健康法ではなく「医療」に踏み込んでいる。しかし一方、「これを食べたら長生きする」くらいの健康法は、判断がむずかしい。たとえば海外のどこかに「日本人は長生きだ。日本人は白米を主食にしている。つまりは白米を食べれば長生きできる」と説く健康セミナーおじさんがいたとする。彼の所業をどこまで批判すべきかは、意見の分かれるところだろう。白米を食べた結果、病気になるのなら批判されるべきだろう。けれども、身体に悪いものでもなければ「まあまあ、そんなに目くじら立てなくても」と考える人も多いのではないだろうか。

健康法の多くは、実利も実害も少ないうえに、「やってる満足感」を人に与えるところが厄介なのだ。

これまでのライター人生のなかで、なんらかの「健康法」を唱える方々には何人もお会いしてきた。その健康法の多くは「アメリカでは常識」とか「最近学界でこういう論文が出された」とかの話を論拠としたものだった。それを原稿にする際は当然、一次資料に当たらないといけない。

そこで気づいたのは、科学の仮面を被ったものは、「考える」や「調べる」よりも「信じる」ほうが何十倍もラクだ、という事実だ。


世のなかには「信じる」以外にないものも、たくさんある。けれどもそこに少しでも「考える」や「調べる」余地があれば、その手間を惜しまない自分でいたい。別にぼくは科学的な人間ではないけれど、考えることをサボるようになったとき、一気に老け込むような気がする。心の老化とは、考えることを忘れて「信じる」ことの分量が増えすぎた人に特徴的な、生の態度に思えるのだ。