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才能の入口にあるもの。

以前、映画監督の李相日さんにインタビューしたときのこと。

たのしかった取材の最後に「映画監督をめざす10代の読者にメッセージをお願いします」とリクエストした。すると彼は、こんなふうに語りはじめた。

 僕はみなさんにアドバイスできるような立派な人間じゃないんですけど、もしも将来の進路に迷ってるとしたら、なんでもいいから自分のやってみたいことに足を突っ込んでほしいですね。
 いきなり夢を壊すようなことを言っちゃうと、結局どんな道を選んでも、嫌なことってついてくるんですよ。これはプロ野球選手でも、会社の経営者でも、みんなそうだと思います。

 僕も映画監督になるまでよりも、映画監督になってからのほうがしんどいですよ。
 映画という「好きなこと」を仕事にできて嬉しいし、幸せなことだとは思います。ただ、僕が「好き」だけで毎日楽しくやってるかといえば、そうじゃない。
 もう逃げ場がないんですよ。
 これまでの人生で散々逃げてきて、ようやくたどり着いた仕事だから、もうここで生きていく以外にない。これで映画まで失ってしまったら、なにをして生きていけばいいかわからない。不平不満を愚痴ってる場合じゃないんです。

 そして楽しいことばかりの人生とか、楽しいことばかりの仕事なんか、たぶん世の中にないと思うんです。
 じゃあ逆に、どうせ嫌なことをやるんだったら、自分がやってみたいことで苦労しよう、と考えたらいいんじゃないですかね。どうせしんどい思いをするんだから。

『16歳の教科書2』収録・李相日監督インタビュー

そして彼はこう続ける。

 たとえば映画監督になりたいとしますよね。
 それで就職せず、コンビニでアルバイトをしてると。
 でも、そのコンビニに映画会社の偉い人がやってきて「きみは見どころがある。うちの会社で映画を撮ってみないか!」なんて声をかけてくれる可能性は、ゼロなんです。
 厳しいことを言うようだけど、そんな「何者でもない自分」に、誰かが手を差し伸べてくれることなんか、一生ない。もしもそんなストーリーの映画があったら、みんな「ありえねえー」って思うでしょ?
 自分の人生を動かしたいなら、自分でアクションを起こすしかない。
 恥ずかしいとか、迷惑がかかるんじゃないかとか、余計なことを考える必要はありません。特に10代のうちなんて、親にも、先生にも、どこかの社長さんにも、あらゆる大人に迷惑をかけまくっていいし、どんな無茶をしてもいい。
 だって、ごめんなさいで許してもらえる年齢なんだし、大人になったら、それができなくなるわけですからね。

 そしてもし、自分が映画監督として才能があるか、あるいは監督としてやっていけるかを知りたかったら、まず自分で脚本を書くこと。
 脚本を書いてみて、信頼できる人に見せて、意見を聞くこと。誰かが手を差し伸べてくれるのは、そのあとです。

 なんといっても、脚本を書くのはタダです。お金がなくても、誰にでもすぐにできること。それこそ高校生でも、明日から脚本を書くことは可能なんです。
 まずはその「何者でもない自分」からの一歩を踏み出してほしいですね。

同上

取材したのはもう15年くらい前なんだけど、いまでもこのときのことばは折に触れて思い出す。いちばん大事な教訓が、ここで語られている気がする。


ものすごく大雑把な話をすると、世のなかには「やれと言われてもやらない人」と「やれと言われてやる人」、そして「やれと言われなくてもやる人」の3種類がいるのだと思う。

たとえばぼくの場合、「片づけ」というジャンルにおいては「やれと言われてもやらない人」だ。学校の勉強についてもかなり「やれと言われてもやらない人」だったように思う。

そして映画監督になりたいと思っていた学生時代の自分を振り返ってみたとき、李相日監督の言うように自発的に、無尽蔵に、じゃんじゃん脚本を書いていたかというとまったくそんなことはなく、もっぱら映画鑑賞に時間を費やしていた。映画制作については「撮るのは金がかかるしなあ」とか「機材がないもんなあ」と先延ばしにしていた。いまになるとわかるのだけど、その時点でもう、ぼくには映画の才能がなかったのだ。


才能ってことばについてはいろんな定義があるだろうけれど、入口にあるのは「やれと言われなくても、それをやってしまう」じゃないのかな。まあ、職業としてこなすうえでは「やれと言われてやる」でも十分だと思うけど。