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正解がない時代って言うけれど。

まったく知らないことばかりだなあ、と思う。

本を読むとき、新聞を読むとき、報道番組を見るとき、いつも「知らないこと」の多さにあきれかえる。たとえば「税制がこんなふうに変わる」みたいなニュースがあったとして、しかもそれについて「もう知ってるよ」と思っていたとして、解説記事を読めばちゃんとしっかり「ぼんやりとしか知らなかったこと」が書いてある。つまり、知らなかったわけだ。

そして途方に暮れてしまうのは、ぼくにとっての「知らないこと」が、だれかにとっての「知ってること」である点だ。たとえば税制改革に関する記事を書いた記者だったり、その記者が取材した先の専門家だったりは、ちゃんと(少なくともぼくよりは正しく)知っているからこそ、解説記事が書けている。

ここでおもしろいのは、「人はなんのために生きるのか」や「人は死んだらどうなるのか」みたいな、形而上学的な問いの立ち位置である。

ふつうに考えてこれは「誰も知らないこと」だ。正解なんてあるはずもないし、わかるはずもない、不可知の話だ。しかしながら唯一絶対の正解が存在しないからこそ、人の数だけ正解があったりする。そして各々が語る「わたしの答え」を不正解だと断ずることはできなかったりする。だって、代わりに正解を指し示すことはできないのだから。

正解のない時代だ、とよく言われる。

ビジネスの世界でも、学校教育の現場でも、人生設計の文脈においても、だれもがみんな「正解のない時代」だと言う。まるで、そう言っておくことが正解であるかのように。

けれども、いつの時代にだって生き方や考え方の「正解」なんてなかったはずで、かつて正解らしきものがあったとすればそれは「みんなの考える『わたしの正解』が大体同じだった」というだけの話だろう。つまり、失われてしまったのは「正解」ではなく、「みんな」なのだ。

じゃあ、「みんな」が失われて個々人がそれぞれ勝手に生きているかというとそんなこともなく、「みんな」よりもずっとずっと半径の狭い「おれたち」や「わたしたち」のサークルが乱立し、互いに反目しつつも、それぞれにほどよいエコシステムを確立させつつある。


でもなあ、やっぱりぼくは「おれたち」の枠に閉じた仕事じゃなく、「みんな」に届くような、開かれた仕事がしたいんだよ。

そしてそのためには、最大公約数的な配慮を施したなにかをつくるんじゃなくってさ、あちらの「おれたち」にも、こちらの「わたしたち」にも、それぞれに違った角度から届く、多面的な一冊をつくる。それしかないと思うんだよ。奥行きよりも多面性、それが今後求められる「いい本」の姿だと思うんだよ。

……とかなんとか考えつつ、次回作の原稿を書いています。