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肩の荷を下ろすとき。

肩の荷が下りる、という言いまわしがある。

心配ごとや悩みごと、あるいは抱えている仕事などから解放されたとき、使われることばだ。もの書きの立場で言えば、脱稿したとき、無事にコンテンツが世に出たとき、まさに肩の荷が下りたことを実感する。精神的な話でありながら、肉体的にも楽になったような感覚が、たしかにある。納得することを「腑に落ちた=腹に落ちた」と言ってみたり、いっぱいいっぱいの状態であることを「手がまわらない」と言ってみたり、困り果てることを「閉口する」と言ってみたり、精神状態を身体感覚にたとえた言いまわしはいくつもあるものの、「肩の荷が下りる」の持つ身体性は、群を抜いているような気がする。

おそらくポイントは「肩」ではなく、「荷」のほうにある。

たとえばこれが「肩がほぐれる」みたいな言いまわしだったら、ちっともおもしろくないし、リアリティもない。われわれ人間が「荷」を背負った存在であること。本来必要ではないはずの「荷」を、なぜか背負ってしまっていること。いつかそれは下ろせるものであること。「荷」を下ろしたニュートラルな状態こそが、人間本来の姿であること。どういうわけだか人間は、たくさんの「荷」を背負っては歩き、任意の時点でそれを下ろし、またあたらしい「荷」を背負っては歩き、をくり返していく宿命がありそうだということ。「肩の荷が下りる」という言いまわしには、たくさんの広がりがある。

ライターになって二十数年、ぼくはずっと締切という「荷」を背負って生きている。なんの締切もない、という日が訪れたならそれはライターとしての失職を意味するわけで、ひとつの「荷」を下ろしては別の「荷」を拾い、筋力をつけてはよりたくさんの「荷」を背負い、ここまでやってきた。ちいさなレベルでいえばこの note だって、毎日拾っては下ろし、下ろしては拾いを続けている「荷」のひとつだ。取るに足らない雑感ばかり書いているけれど、ひとつ書き終えるごとに肩の荷が下りた実感は、そのつどある。


いまぼくが取り組んでいる本は、重量だけでいっても過去最大の「荷」だ。押し潰されそうになることもあるけれど、望んで背負った「荷」でもあり、なんとかゴールまで運んでいきたい。そして過去最大の「肩の荷が下りた」の快感を、味わいたいのだ。