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調べてから書かないと。

サラリーマン川柳、というコンクールがある。

そのときどきの世相を絡めながら、サラリーマンの悲哀を自嘲ぎみに詠んだ川柳だ。嘆きや哀しみの歌でありながらも、サラリーマン川柳の多くは深刻にならない。むしろ「なんだかんだで幸せ」な印象に落ち着く。それは彼らの悲哀が、川柳というユーモアとして、共感の文脈のなかで語られるからだろう。

なんて話とは別に、「サラリーマン」という日本語は、いまやサラリーマン川柳のなかにしか存在しない。仮にぼくが商業出版物の原稿中にその5文字を使ったならば、「ビジネスパーソン」と改められるだろう。少なくとも編集者さんや校正者さんから、その提案は受けるだろう。

じゃあ、あのコンクールも「ビジネスパーソン川柳」に改めるべきなのか。ポリティカルコレクトネス的に言えば、そうだ。よく言われるように、そもそも「サラリーマン」は和製英語であって、ちゃんとしたことば、すなわちビジネスパーソンに改めたほうがいい。そしてそこに、男性名詞を使わないほうがいい。まったくの正論である。

しかしながら「ビジネスパーソン」に、じめじめとした悲哀の湿り気は少ない。むしろ颯爽とした、カラッと乾いた清潔感が漂っている。「ビジネスパーソン川柳」を募集したところで、スタートアップがどうしただの、ローンチしたサービスが云々だの、まるで湿気を帯びない単語が並びそうだ。

ならばいっそ、あれを「おっさん川柳」に改めてはどうか。働きびとの悲哀を詠むのではなく、ただただおっさんの悲哀を詠むコンクールにするのはどうだろうか。実際のところ、現状のサラリーマン川柳も、若い詠みびとの少ないおっさん川柳なのだから。

おそらくそうすると、応募作も少なくなり、採り上げてくれるメディアも少なくなるだろう。ただのおっさんとして、おっさん特有の悲哀を川柳にせんとする動機は薄かろうし、それを作品としてたのしみたい人も少ないと思われるからである。


結局のところ、あのコンクールが「サラリーマン」という昭和語を使ったまま開催されていること自体が、「これはおっさんの大会なんですよ」というアナウンスにもなっているのだから、あの名称のままでいるのが最善なのだろう。主催者もそう判断しているのだろう。


と思って念のためにコンクールの概要を調べてみたところ、昨年から名称を「サラッと一句!わたしの川柳コンクール」に改め、略称を「サラ川」にしているのだそうだ。

ぼくが考えたあれこれは、まったくの無駄骨だったわけだ。調べてから書かないと、こんな馬鹿を見てしまう。