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頭文字ではイカンガー。

むかし、イカンガーというマラソン選手がいた。

瀬古利彦さんや宗兄弟のライバルで、やたらめっぽう強かった。とくに瀬古選手と競技場の最終コーナーまで競り合った福岡国際マラソンでの勇姿は、ぼくのような不熱心なマラソンファンのこころにも刻みこまれている。とはいえ、彼のことを折に触れて思い出すのは、マラソン選手としての強さ以上に、その名前にあるのは間違いないだろう。


こういうのはいかんなあ、と思った次の瞬間、イカンガーを思い出した。

なので思わずタンザニアの黒豹、イカンガー選手について語り出してしまったのだけれど、問題は「いかんなあ」。いったい、なにに対してそう思ったのか。

なんの本だか忘れたけれど——ぼくのダメなところだ——なにかの翻訳書を読んでいるとき。もしくは翻訳記事を読んでいるとき。もしかしたら海外物のドキュメンタリーを観ているとき。そこに「ソーシャルネットワークでのつながりが現代人に与えた影響は〜」的な記述に遭遇したのである。

ぼくは思った。ものすごく「いかんなあ」と思った。

なにがいかんのかというと、ここ数年、なにも考えないまま「SNS」ということばを使う自分がいたのだ。これ、ちゃんと「ソーシャルネットワーク」みたいなことばを使わないと、「SNS」なんて記号のままで語っていると、語っていながらその本質を見失ってしまうよなあ、と思ったのだ。

面倒くさい話になるけれど、どういうことかもう少し続けよう。

ツイッターやらフェイスブックやら、それらを介したつながりやらを論じるとき、「SNS」という記号的ことばを使うと、どうしてもイメージが抽象化してしまう。「そういうの」とか「ああいうの」みたいな、ぼんやりしたイメージの中で、論が展開していく。一方、「ソーシャルネットワーク」ということばがあるだけで、イメージは少し具体に近づく。少なくともその本質が「ネットワーク」にあることを都度つど理解しながら語ることになる。


ああ、これは時代が変わったなあ、とぼくが最初に思ったのは、1997年に公開された映画『メン・イン・ブラック』のポスターである。

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タイトルよりもおおきく印字された「MIB」の文字。英語バカボンなぼくはこの三文字がなにを意味するのか了解するまでに、数秒間の時間を要した。了解して少し、ぷんぷんした。

いや、もちろんそれまでにもFBIとかCIAとか、もっとさかのぼればGHQ、さらにはOHP、R&Bなどなど、頭文字による略称が一般語化した事例は日本にもたくさんあったのだけど、こういう新語を頭文字で浸透・流布させる文化が日本にもやってきたら、いちいち憶えるのは面倒だなあ。はたして日本でも流行るのだろうか。おれは憶えられるのだろうか。なんてことを危惧したのを憶えている。

が、いまではSNSだけでなく、GAFAがどうした、QOLがどうしたといった略語はもちろんのこと、マイケル・ジャクソンでさえ「MJ」になり、追悼の意を「RIP」の三文字で表す日本人も出ているくらいだ。

で、ぼくはそういう頭文字語をなるべく避けて、ちゃんと意味の通ることばを使うようこころがけていたつもりなのだけど、SNS。

今後はしっかり「ソーシャルネットワーク」と呼んでいきたいと思います。