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なぜ前を向く必要があるのか。

Facebookのお知らせ機能がなければ、気づかなかったかもしれない。

取材・執筆・推敲』の刊行から、1年が経った。刊行直後から同書を教科書とする「バトンズの学校」設立準備に入り、今年の頭まで走り抜けてきたせいもあって、文字どおりにあっという間の1年だった。

「丸3年かけて書いた」なんて謳っているものの、ほんとうのことを言えばライターの仕事に就いて以来の「やってきたこと」や「考えてきたこと」をぜんぶ詰め込んだ本なので、丸25年かけることでようやく書けた本だ。あとがきのなか、ぼくはこんなふうに述べている。

 異様に長い執筆期間からわかるように、執筆は難航した。
 ある分野の教科書をつくるということは、それを「科学」の目でとらえなおし、修学可能な学芸リベラルアーツとして確立(普遍化・体系化)させることでもある。「ライターの教科書をつくる」という身の丈を超えたコンセプトに縛られるあまり、のびのびと書けない時期がしばらく続いた。そして「ライターの教科書」ではなく、「もしもぼくが『ライターの学校』をつくるとしたら、こんな教科書がほしい」をコンセプトとしたとき、つまりみずからの主観に従って考えたとき、一気に筆が進みはじめた。

 だから本書は、中立的な教科書とは言えない。
 ましてやバイブルなどでは、まったくない。
 本書は、ぼくからの「バトン」である。このバトンには、ぼくの考える「取材・執筆・推敲」の原理原則が、すべて詰まっている。これ以上書くべきことはない、と思えるところまで書き尽くした。10年後に読み返しても、20年後に読み返しても、ぼくはこの本の内容にこころから同意するだろう。悔いのない、生涯誇りにできる本になったと、自分でも思っている。

『取材・執筆・推敲』あとがきより

熱いなあ、と赤面する気持ちはありながらも「まったくそのとおりだ」と、いまでも思える。すでにたくさんの方々に読んでもらえた幸せな本だけれども、もっともっとたくさんの読者に届けたい。

しかし一方、移り変わりの激しい出版界のなかで、1年前の本といえばもう完全に過去の作品だ。そんな過去作をあたらしい読者に読んでもらおうとした場合、これからのぼくになにができるのか。

魅力的な新刊を出すことだ。

抜群におもしろい新刊を出して、それが話題になってくれれば「あの○○を書いた著者の過去作」として再び『取材・執筆・推敲』に脚光が集まる可能性が出てくる。あたらしい読者に「発掘」され、「発見」される可能性が出てくる。過去作を大事に思うからこそ前を向き、新作に力を入れるわけだ。


これは人生全般でも同じことが言えて、「いま」が苦しい人は、「未来」をおもしろくするしか、やりようがない。5年後なら5年後、幸せになった自分の目で振り返れば、どん底めいた「いま」も、いい思い出に変化しうる。その意味で過去は、未来と同じくらいに改変可能で、不確定なものなのだ。そして過去が未来を決定づけるのではなく、むしろ未来の自分がおのれの過去を改竄していくのである。

落ち込んでいる人に向けて語られる「前を向け!」のアドバイスは、「後ろ(過去)を変えろ!」のアドバイスでもあるのだ。