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伝達じゃない言葉を。

ほめ言葉について考える。

たとえば犬の散歩をしていると、「かわいいですね」なんてほめてもらえることがある。返す言葉は「ありがとうございますー」だ。「弱虫なんですぐに吠えちゃうんですけど」なんて付け足しつつも、デレデレになってよろこぶ。相手の方と別れたあとも「かわいいって言われたねー」とかなんとか、犬としゃべりながら歩く。

一方、自分自身がほめられたとき。まあ、さすがにルックスを「かわいい」なんて言われる機会はないので、自分の仕事についてほめてもらえたとき。記事だの本だのがおもしろかったと言われたとき。ここですぐさま「ありがとうございますー」の言葉は出てこない。どうしても「いやいやいや」と、恐縮してしまう自分がいる。「そんなお気を遣わず」と思ってしまう自分がいる。「お世辞はもう、けっこうですから」と。

ここで素直に「ありがとうございますー」と言えたり、心からそう思えたりする自分だったら、いろいろたのしいだろうなあと想像する。犬をほめられたときと同じように、その日のあいだじゅうずっとルンルンなんだろうな、と思う。でも、できない。おそらく何歳になってもこの性分は変わらないのだろう。

ほめ言葉を素直に受け止めきれないのは、第一にぼくの自意識がダメダメな証なのだけれども、それだけでもないような気がする。コミュニケーションそのものが持つ落とし穴なのかもしれない、と思うのだ。

たとえば、誰かが「あの本、おもしろかったです」とほめてくれたとする。これは、ぼくに向けられた言葉であり、感想である。ぼくをよろこばせるために、よかれと思って言ってくれた、伝達の言葉だ。

けれどもぼくがいちばん聞きたいのは、「伝達じゃない言葉」なのだ。

つまり、その原稿を読みながらひとり言のように「すげえ!」とか「おもしれえ!」とか言っている、誰に伝達するでもない言葉が聞きたいのだ。それだったら信じられるのだ。

だって、たとえばおいしい鮨を食べたとき、大将に「おいしいですねえ」と伝えるよりも、ひたすら「うまい!」とか「くぅー!」とか言いながら食べるほうが、大将もうれしいんじゃなかろうか。自分に向けられた「伝達」の意図を持った言葉ではない、カウンターの向こうから漏れ聞こえてくるひとり言のほうが、しみじみうれしいんじゃなかろうか。


そういう意味でいうと音楽とか映画とか、スポーツとか食事とか、なにかしら「ライブ」の要素を含んだ仕事はたのしいだろうなあ、と思う。文章はどうしてもライブになれないんだよねえ。

このビートルズ(ストックホルム/1963年)を見て、ライブってすげえなあ、と思ったのでした。この観客たちの拍手や歓声は「伝達」じゃないもんね。