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BGMとしての映画。

きのう『スローターハウス5』の映画を観た。

カート・ヴォネガットの原作は、何度となく読んでいて——こういうときに軽々しく「何百回も読んだ」と言う人がいるが、さすがにそれは嘘だろうとぼくは思う。せいぜい何十回がほとんどだろう——これからも折に触れて読み返す本だと思っている。たとえば『嫌われる勇気』という本のなかには、件の小説からこの有名な一節を引用させていただいた。

神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ。

それだけ好きなはずの小説なのに、映画版のほうにはまるで食指が動いていなかった。あの世界を映像化できるとは思えなかったし、安っぽい不条理劇として見せられるのも嫌だ。そして、うっかり観てしまった挙げ句「原作のよさを殺してしまってる!」なんて憤るファンになるのは、もっと嫌だ。

ところが昨日、糸井重里さんが「今日のダーリン」でこんなふうにすすめていた。

いまごろ『スローターハウス5』という映画を観た。ボネガットの小説を続けて読んでた時期があるけど、映画はまったく観たことなかった。よく映画にできるものだなぁというだけでも感心したし、1972年の作品なのに映像がかっこいい。音楽もいいなぁと思ったらグレン・グールドだった。こういう使い方もセンスいいなぁ。録画を消すつもりで頭だけと思って観はじめたのに、まるまる観て、これは、ほんとによかったなぁ。

へぇー! と驚いて、さっそく観た。


詩のような、白昼夢のような、チューニングの合わないラジオのような、感情が置いてけぼりにされる、なんとも不思議で美しい映画だった。原作を読んでいない人がどれだけたのしめるのかはわからないけれど、そういう意味も含めて「BGM」だと思った。バック・グラウンド・ミュージックではなく、バック・グラウンド・ムービー。意識の彼方で再生されている、断片の映像たち。こう聞くと、実験映画のようなものをイメージするかもしれないけれど、実験が過ぎるわけでは決してない。アメリカン・ニューシネマの棚に並べたくなる、独特な暗さと美しさを併せ持つ映画だった。

大好きな『スローターハウス5』、また読みたくなってきたなあ。

というか和田誠さんの有名なこのイラスト、映画から描き起こしたものだったんですね。


きょうは『カメラを止めるな!』を観に行きます。