IMG_4207のコピー

自分の嘘がバレるとき。

小学生のとき、担任の先生とクラスを巻き込む大論争になったことがある。

タイガーマスクが華々しくデビューし、藤波と長州が「名勝負数え歌」と呼ばれた抗争をくり広げ、アントニオ猪木がIWGP構想にひた走る80年代、ぼくは頭のてっぺんから足の先まで、完全にプロレスっ子だった。学校の昼休みにはプロレスごっこに明け暮れ、家に帰ってはプロレス漫画を描き、国語の時間の「尊敬する歴史上の人物に手紙を書きましょう」という課題作文では、早くに他界した父親に代わって猪木少年を育てた祖父・相良寿郎に宛てて「あんなにすばらしいレスラーを育ててくれてありがとうございます」と手紙を書いていたくらい、あほすぎるプロレスっ子だった。

そんなぼくを見かねたのだろう、あるとき担任の先生が「ばかばかしい。プロレスなんて八百長でしょ」と言ってきた。モハメド・アリやウィリアム・ルスカとの異種格闘技戦などを持ち出して反論すると、それさえも八百長なのだと先生は笑う。冗談じゃない、そりゃ力道山の時代にはそういうこともあったかもしれんけど、猪木は違うんだ。新日本プロレスは違うんだ。……断っておくがこれ、放課後やお昼休みの話ではない。国語だったか道徳だったかの、完全なる授業中の話だ。ぼくが反論するたびに男子生徒の一部から拍手が湧き起こる。女子生徒の一部から失笑が漏れ聞こえる。そして論争が大盛り上がりしてきたところでついに、担任の先生は禁句を口にした。


「じゃあ、なんでロープに振られたら走って帰ってくるの?」


……くっ。一瞬言葉を失いながらもぼくは、アブドーラ・ザ・ブッチャー著『プロレスを10倍楽しく見る方法』で読んでいたエクスキューズを、そのまま説明した。

「あ、あれはわざとですよ。わざと投げ飛ばされて、ロープの反動を利用して帰ってきて、その勢いで返し技をかけてやろうと狙ってるんですよ。ラリアートとか」

言いながらぼくは、自分が嘘をついていることを理解しはじめた。多少あぶなっかしい虚言や屁理屈であっても、それを読んだり聞いたりしているときにはうやむやにして自分をごまかすことができる。「信じたい」の気持ちが優先して、あやしい部分があっても、見て見ぬふりをすることができる。ところが、それを自分のことばでアウトプットしようとした瞬間、ましてやそれで他者を説得しようとした瞬間、自分が目をつぶってきたウソがどんなにデタラメなものだったか、思い知らされる。

これは大人になっても同じことが言える。インプット時の違和感をうやむやのままごまかしてきた事ども。それを自分のことばでアウトプットする段になったとき、けっきょくのところ人は「嘘つき」になるか「なにも言えない人」になるかしか選択肢がない。ライターはまさにそんな仕事だし、その他おおくの仕事も同じだろう。

嘘つきになりたくなければ、インプット時の違和感に立ち止まることだ。そしてさらなる理解に務めることだ。