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技術より、才能よりも、大切なもの。

スポーツの世界で考えれば簡単なのだけれど。

じつを言うと最近、ちょっとだけ焦りを感じている。「このままじゃ、いけないんじゃないか?」と思っている。しかもそれは人生ではじめてと言えるタイプの焦りで、われながら対処に困っている。行きつく先の答えはひとつしかないのだけど、その答えがわりと苦しい。でもなあ、そっちに進まないといけないんだよなあ。自分に言い聞かせている。

スポーツの世界ではしばしば「試合勘」という言葉が語られる。休場明けの力士について。怪我から復帰したプロ野球選手について。あるいは海外のクラブチームでベンチ外の憂き目に遭っているサッカー選手が日本代表に選ばれたときの懸念などとして、その言葉は語られる。

試合勘は、技術や経験とは別のところにある言葉だ。どんなに技術があろうと、どんな才能に恵まれていようと、またどんなにクラブチームで精力的な「練習」に励んでいようと、試合勘は身につかないし、戻ってこない。試合勘を取り戻すためには、技術や実績と関係なく、ただたくさんの——そして本物の——試合に出場する以外にない。

そして仕事にも当然、試合勘に該当するものはある。長く現場から離れていると、その人の知識や技術や経験と関係なく、仕事の試合勘は衰えていく。さあ真打ち登場、なんて腕まくりして久方ぶりの打席に立ったところで、目も当てられないほど無様に三振してしまう。


バトンズという会社を設立して7年。このあいだにぼくは6冊の本をつくっている。さまざまな尺度はあるだろうけれど、スポーツの世界でいう試合勘をキープするようなペースではまったくないと、自分で思う。知識や技術や経験があるつもりでも、そしてほんとうにそれがあったとしても、圧倒的に試合勘が足りていない。年間1冊以下ってのは、そういう数字だ。ぐずぐずしていないで、もっとたくさんの試合に出なきゃいけない。

けれども当然、試合に出れば負ける。いや、全敗するわけじゃないとしても仮に10試合に出たら、3つや4つは負ける。じっと動かなければ、「負け」はしない。たくさんの試合に出ることは、みずから「負け」に行っているのだと考えることさえ、できる。


いま、「バトンズの学校」に集中しきっているおかげもあって、自分の原稿をまったく書かない日が続いている。学校の準備期間から数えれば、もう半年以上なにも原稿を書いていないことになり、そんなに長いこと書かなかったのはライターになってはじめてのことだ。

焦りの原因はそこなのだと自分でもわかっているけれど、学校が終わったら書かなきゃなあ、と真剣に思っている。それは「書きたいなあ」よりもずっとずっと切実な「書かなきゃなあ」だ。岐路にいると思うんだよ、自分で。

そういう自分と正面から向き合えたことも、「学校」をやってよかったことのひとつだろう。