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遠くのものを、遠くのままに。

漫画ばかりを読んでいる。

お風呂に入るときと、就寝前のベッドはぼくにとって、たいせつな読書時間だ。そのかぎられた読書時間を使って最近は、漫画ばかりを読んでいる。たまにはあたらしい漫画を読むこともあるけれど、基本的には読み逃していた古い漫画を読んでいる。ちなみに現在の課題図書は、『グラップラー刃牙』だ。なるほどこういう漫画だったのかあ、と毎晩おもしろく読んでいる。

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さて。

どうしてぼくは漫画ばかりを読んでいるのか。疲れすぎて、文字の本を読むことがむつかしくなっているのか。読書体力が低下しきっているのか。

そうではない。ひと言でいえば「飽き」なのだ。本を読むということに、とりわけ人文・ノンフィクション系の本を読むことに、ちょっと飽きがきているのである。本に触れるときのぼくは、どうしても分析的な目でそれを読んでしまう。人文・ノンフィクション系の本であればとくに、批評的な目で読んでしまう。しかも、書かれている内容のおもしろさとは別に、「ははあ、あの系の本をめざしているのか」「大事なことを言っているようで、なにも言えてないじゃないか」「ここでこの手を使ってきたか」「ああ、ここは○○からの剽窃だ」「ほらほら、もう論理が破綻してるじゃない」「もったいない。このパターンに逃げちゃダメなのに」「この章から一気に雑になってるな。早く書き終えたい一心だな」「まあー下手くそだこと」みたいな、底意地の悪い読者になってしまうことが多い。

とくにこの一年、文章に関する本を書いているせいで、もう完全にあたまがそのモードになっている。残念ながらこれは、本を読む態度としてまったくおもしろいものではない。


一方、漫画はぼくにとってものすごく遠い表現形態だ。過度に分析的になることなく、純粋にひとりの読者としてその世界をたのしむことができる。たぶんぼくが音楽をずっと聴いていられるのも、コードやスケールやの専門的なところにまで入り込まず、観客席の人間として触れているからだと思う。プレイヤーでもオーディエンスでもない、舞台袖の「関係者エリア」みたいなところに腰を据えるとエンタメは、とたんにつまらなくなると思うのだ。

いや、「そこにいるおれ」が好きな人が多いのは知ってるけれど、それは本や映画や音楽やをたのしんでいるというよりも、「おれ」をたのしんでいるだけだからね。

ともあれ最近はずっと漫画を読んでいます。分析的・批評的にならずにすむ「遠いエンタメ」を持っておくこと、とても大事だと思うんですよね。