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記憶力が弱いのではなく。

ネットサーフィン、ということばはもう死語なのか。

ブラウザで閲覧するテキストのうち、ソーシャルメディアの比率が増すにつれ、ネットサーフィンをしなくなったしできなくなった。ネットサーフィンには「関連情報のリンクをたどる」という一応の文脈らしきものがあり、思わぬ地点にたどり着いたとしても、ことのはじまりからの意識はつながっている。しかしタイムラインという情報の濁流を基本とするソーシャルメディアには「文脈」がなく、タイムラインに表示された「?」や「!」を都度都度クリックしてばかりの時間は、意識の寸断がはなはだしい。

という話はともかく、YouTubeをネットサーフィン的に触っていた昨晩、ある作家さんの対談動画に突き当たった。彼女(作家さん)は、対談相手の方とはじめて会った日について、「あなたの家はこのへんにあって」「玄関にはこういう靴が所狭しと並んでいて」「ベッドはこんな感じで」「部屋の装飾にはこういう色のビロードが使われていて」と、まるで昨日のことのように語りはじめた。もう何十年も前の出来事だというのに。その正確さは対談相手の方も脱帽するほどのもので、「ほんものの作家はすごいなあ」と思わされた。記憶する力って、こういうものなんだなあと。

受験勉強的な記憶力の話ではない。その日、そのときの情景を記憶し続ける力の話である。

たとえば先日、サッカーのワールドカップが開催された。ぼくも含め、世界中のサッカーファンが夢中になった。「この感動を忘れない」みたいなことばが、軽々と語られた。でも、どうだろう。まだひと月にも満たないのに、ずいぶん忘れてしまったのではないだろうか。

忘れないとは、「忘れることを、しない」のではない。

忘れないとは、「記憶(を新たに)し続ける」ということだ。

その出来事を何度でも思い出し、記憶の筆でなぞり、新鮮な色を塗り重ねていく。そういう不断の記憶が、結果として「忘れない」なのではないかと、ぼくは思う。記憶力が弱いと嘆く人は「憶える力」が弱いのではなく、「思い出す回数」が少ないのだ。そして昨日ぼくが見た作家みたいな人は、折に触れて何度でも「あのとき」を思い出し、記憶を新たにしているのだろう。それを続けることで多少「あのとき」の色やかたちが変わったとしても。


そんな昨夜、本日を仕事納めの日とすることを決めました。年末年始は進行中の原稿を(あたまのなかで)書き進めながら、映画やNetflixは控えめにして、もっぱら読み損ねていた本を読む時間にあてたいと思います。

今年も一年、ありがとうございました。よいお年を、ともに迎えましょう。