ひさしぶりの「きょう飲みませんか?」
昨日、友人に呼ばれて飲みに行くことになった。
前日や前々日の誘いだったなら、断らざるをえなかった。けれどもきのうはちょうど予定が空いており、へえへえ行きましょう行きましょう、と飲みに出かけた。会社近くのバーで待ち合わせ、何時間もそこで話し込み、時計が12時をまわるところで新宿までラーメンを食べに出かけ、食べて別れた。
そういう飲みかたをするのは、ひさしぶりのことだった。当日の夕方にいきなり呼び出されることも、それにほいほいついて行くことも、締めのラーメンを食べて帰ることも。
なぜひさしぶりだったのか。思い当たる理由をいくつか挙げてみる。
① 仕事が忙しい
いかにもありそうな理由だ。そして実際、忙しい。たとえばきょうにしたって、会社に泊まり込んでやろうと思えばそれに十分な量の仕事はたまっている。数カ月単位、あるいは年単位で片づけるべき仕事が常にあり、休もうと思えば休める反面、働こうと思えばどこまででも働ける(それだけの仕事を抱えている)のがここ数年のぼくだ。
けれども忙しかったのはむかしからのことで、毎月、毎週、毎日の締切は、若いころのほうがたくさん抱えていた。休むヒマなど、あのころのほうがなかった。
② 友だちが少ない
身も蓋もない理由である。世の平均がどのへんにあるのかわからないけれども、友だちの「数」だけで考えた場合のぼくは、偏差値42から45くらいではないかと思われる。周囲の話を聞いていて、「この人は友だちが多いなー」と思うことはしょっちゅうある。
もとから友だちが少なく、しかも年齢を重ねるごとにその数は減っている。だから誘われる機会も減っている。なるほど、ありそうな線だ。
③ なんか誘いにくい
誘う側の人間になって考えてみたとき、世のなかには「誘いやすい友だち」と「誘いにくい友だち」が確実にいる。人間的な魅力とか、仲のよさとか、フットワークの軽さとか、話し相手としてのおもしろさとは関係のないところで、誘いやすさと誘いにくさは存在する。
たとえばその人を誘った場合、よほどのことがないかぎり足を運んでくれるだろう。なんでもない飲み会を、それなりにたのしんでくれるだろう。しかし、そうやって気持ちよく参加してくれること自体に、どこか申し訳なさを感じる。「ほんとは忙しかったんだろうな」「いろいろ片づけて来てくれたんだろうな」「家でゆっくりやすみたかったのかもしれないな」みたいな申し訳なさを感じさせる人は、たしかに存在するのだ。別にその人が退屈そうな素振りを見せてるわけでもなかったとしても。
むかしは「誘いやすい人」だったけれども、年齢を重ねていくうちに「誘いにくい人」になってきた。これも大いにありえる話だろう。
④ おれとみんなの高年齢化
夕方に友だちを呼び出して、仕事でも喫緊でもない話題でさんざんしゃべりまくって、それで最後にラーメンを食べに行く、なんてのはいかにも若者の飲みかただ。一方でぼくはすでに若者ではなく、同世代を中心とした友だちたちもつまり、若者ではない。それぞれに家庭があったり、犬の散歩があったり、翌週に健康診断を控えていたり、医者からメタボリックを指摘されていたりする人間ばかりだ。だったらもう、むかしみたいな飲みかたはしないだろう。飲むとしても何週間も前から予定を組み、お店を予約するなどして堂々と、正規ルートで飲むだろう。うん、これも納得のいく話である。
以上、いろいろと理由を考えてみたのだけれど、結論。
どんな場合においても人間は「誘いやすさ」を持っていたほうが、いろいろ得なんだろうと思う。自分が外向的であろうとなかろうと、パーティーピーポーであろうとなかろうと、ちょっとした「誘いやすさ」さえ持っていれば結果としてたくさんの機会に恵まれる。いわゆる人脈みたいなものだって、もとを辿ればその人の「誘いやすさ」がつくってくれたものなのだ。
「誘いにくさ」で守られる自分や時間もあるだろうけど、それで失っている機会もまた大きいんだよな。