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「読解力」にふりがなを。

つらつら本を読んでいたら、こんなことばに出会った。

映画監督の黒澤明さん、映画解説者の淀川長治さん、『乱』など黒澤作品の音楽も手掛けた武満徹さんによる鼎談での、黒澤さんの発言だ。

「僕はこう思ってるんです。映画というのは、本当は球体じゃなきゃいけないんだと。ところが、そうはいかない。とにかく、少なくとも多面体ですよね。そもそも映画というのは、そういうものでなければいけないと、僕は思っているんだ。ある一定の人にしかわからないし、心打たれることもないというようなものじゃなくて、いろいろな面があって、いろいろな人が、各自そこから得るものがあるというものだと思うんですよ。
 もっと生意気なことを言うと、程度の低い人には程度の低いなりに、その映画からおもしろさ、美しさを感じて、高い人は高いで、また違うものを感じてもいい。
 大体、芸術を鑑賞するということは、それ自体が創作みたいなものだからね、見る人の。そういうつもりで撮っているんだけれども、淀川さんがそういう仕事をしているから言いにくいけれども、解説というのは、僕は一番いけないと思うんだよね。そうじゃなくて、自由に見てもらうことが一番いいんだよね」

淀川長治、黒澤明を語る。』より

芸術の理想型は、球体である。しかしそれは理想であって実際にできるのは多面体である。かぎりなく球体に近い多面体が、自分のめざす映画である。そして観客は多面体から、人それぞれにさまざまなことを考える。観客がそこになにを見て、なにを感じようと、それは自由だ。コントロールしようとか、ひとつの解釈を押しつけようなんて気持ちは、さらさらない。そもそも芸術鑑賞とは、その行為自体が観客(鑑賞者)による創作なのだ。その自由なる創作活動に横やりを入れるなんて、そんな馬鹿げた話があってたまるものか。

——そんなふうに、ぼくは理解した。ちなみにこの発言を受けて淀川長治さんは「僕はスタッフだけを紹介しているんだよ」と答えている(笑)。


球体を最終形とする考え方も、かぎりなく球体に近い多面体をめざす考え方も、少なくともぼくははじめて触れる芸術論だった。

そして「どのように解釈するかはお客さんの自由だ」と語るにとどまらず、鑑賞を——思考ではなく——創作だとする考え方にも、はじめて触れた。


たとえば「読解力」の三文字に、「クリエイティビティ」のルビを振る。

それはいちばん納得のいく「読解力」の正体に思える。


あるいは「クリエイティビティ」のあとに、カッコ付きで(鑑賞眼)と入れてみる。つまり、クリエイティビティ(鑑賞眼)と書いてみる。

これもまた、クリエイティブの本質を言い表した三文字に思える。


このあたりの考え、もうちょっと転がしてみよう。